詩篇119:35-37
119:35 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
119:36 私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。
119:37 むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。
願いは何か
私たちは生活の中で何を願っているのかを知っている必要があります。それによって自分の生き方の的が定まってきます。詩篇詩人は、「あなたの道に」(詩篇119:37)といって自分の願いを鮮明にしています。この願いに学びたいものです。
1、人の弱さの現実
人の弱さがあらわされているのはダビデの事例でしょう。
☆罪の誘惑に直面した弱さ。サムエル記第二11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。 11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
アモン人との戦いの時でした。ダビデはエルサレムの王宮の屋上を歩いていました。そこで見たものは水浴する女の姿でした。このことがきっかけでダビデは十戒の戒める姦淫罪を犯してしまつたのです。読み進むと良くわかります。(ご自分の聖書で読みましょう。)
人の中には基本的な欲求である性欲があります。性欲があることは決して悪いことではありません。それが逸脱すると人の生活の中に混乱が持ち込まれます。
☆罪の隠蔽工作をする弱さ。サムエル記第二11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。11:7 ウリヤが彼のところに入って来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。
女の名前は、バテ・シェバでウリヤの妻でした。ダビデはウリヤを戦場から帰しバテ・シェバのもとに送ろうとしました。見え見えの隠蔽工作があります。ダビデの隠蔽工作はウリヤの行動によって計画のようには進展しませんでした。失敗したのです。
☆罪は罪を呼ぶことは明らかです。サムエル記第二11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
ダビデは罪の隠蔽工作に失敗するとウリヤを戦場で戦死させるように指示します。罪が罪を呼ぶことが見えてきます。ダビデは私欲のために事を進めています。これが人間の弱さです。ダビデの弱さでした。
弱さを持った人に必要なものがあります。
それが、
2、自分の弱さを認めることです。
ダビデは王といえども罪ある人でした。
神は預言者ナタンに(サムエル記第二12:1)『主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。(以後はご自分の聖書で読んでください。)』と言って話を進めることによってダビデの罪を指摘しました。
ダビデは罪を指摘された時、すぐに『「私は主に対して罪を犯した」と言いました。ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。・・・」』(サムエル記第二12:13)と言いました。
ダビデは自分の弱さを認め、罪を罪として認めています。そのあとすぐにナタンは罪の赦しを宣言をしています。ダビデに必要なことは自分の罪をありのまま認めることだったのです。
神は私たちに対して、聖書の言葉によって、祈りの中で、礼拝によって、また人を用いて罪を示されます。その時、謙虚になれるかどうかはとても大切なことです。
ダビデには、自分の罪を認める謙虚さがあったのです。
3、「その道を喜んでいますから」との信仰告白。(詩篇119:35)「 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。」と信仰告白がされています。
自分の罪を認める謙虚さは必ず「その道を喜んでいますから」と言う信仰生活に進むようです。「その道」と言われた神が喜んでくださる生活へと励まされるのです。
ダビデは罪が赦された祝福を(詩篇51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。)と歌っています。またパウロも(ローマ4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」)とパウロはダビデが経験した幸いを自分のことのように語っています。まさに「その道を喜んでいますから」という信仰生活だったのです。
私たち人の持つべき願いは、「その道」と言われた聖書を通してあらわされた神の求めておられることを喜んで生きることです。これを私の願いとして生活することが幸いなのです。私たちには必要に迫られた願いがあります。その時は、必要を満たしてくださる主のみ手を信じましょう。そして詩篇詩人と心を一つにして「その道を喜んでいますから」と神が喜んでくださる道を進むことを心に決めたいものです。
日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
富 澤
誠 治