| 誌上礼拝 2013年 12月 「信頼の祝福 H」 |
|
| 聖書の言葉 ヨハネの手紙第一2:28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。 信頼の祝福 ⑨ 信頼の祝福を見て来ましたが今回で一区切りをつけることにいたします。きょうの内容は祝福の源泉・決定的な恵みそのものです。それは「キリストが現われるとき」信頼の祝福として報いられるものです。この時がいつであるかはわかりません。そこに神への信頼が大切なこととして位置付けられるのです。 1、信頼の祝福は「キリストのうちにとどまって」のなかにあるのです。 これは、(ヨハネ15:4)「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」に見られるもので、イエスさまは、ご自分を「ぶどうの木」とされました。そのぶどうの木であるイエスさまに、とどまっていることによって「実を結ぶ」こととなることが明らかにされています。 神への信頼とは、キリストにとどまっていることなのです。それ以上のことが求められてはいないのです。ではどうしたらキリストにとどまっていることが確認できるのでしょう。それは、聖書を読むこと、お祈りすること、礼拝を大切にすること、キリスト者の交わりを大切にすること、ささげることの五大原則の中にあるのです。この原則は義務感から開放されて生活化されると何も難しいものではなくなります。
キリスト者の生活は本来報いを求めるものではないでしょう。しかし神への信頼の結果は必ずついてきます。意識したいことは、報いられるように生きるのではなく、神への信頼に生きると報いがともなうことを信じなくてはなりません。つまり報いられることを求める前に神への信頼を確かにするのです。それが 「キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに」とありますように、キリストの来臨(再臨)待望の生活なのです。教会の歴史の中にはキリストの再臨を待ち望む熱狂生活に陥った現実があるのです。その多くはキリストの再臨の日を特定することから起っているようです。聖書的ではなかったのです。再臨の日を特定することへの注意が(マルコ13:28.32)「13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」 「13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」を読むことによって知ることができます。キリストの再臨を健全に待ち望む生活にはさわやかな緊張とともに普通の生活が営まれ、報いがあるのです。その報いは揺るがない平安であったり、神と人との関係の喜びであったり、信仰生活の満足であったり、報いには多様性があるようです。
最も大切なことは、神への信頼の祝福は、「恥じ入るということのない」祝福です。詩篇22:5.25:3.20.119:46.Ⅰペテロ4:16.詩篇の中には、恥じとなることがないように祈っている事例は多く見られます。「恥じ入るということのない」ようにとの真剣な祈りがあることが大切なことかも知れません。 私たちの生活の中には時に "どうして" と思うような、理解できないことが起ります。そんな時にも神への信頼に生きることは幸いです。クリスチャンなのに "どうして" と言われるような時にも神への信頼を貫くことは勇気のいることであり、力も必要です。その力はみことばの支えという形や礼拝によって神が与えてくださるものです。 私たちの信仰(神への信頼)は、天へ召された時か、キリストの再臨の時に明らかになるようです。これが聖書が語る大切なメッセージでることを覚えたいものです。神への信頼が後の祝福となることは確実です。神への信頼の祝福を自分のものとしたいものです。
|