詩篇32:10.11
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
信頼の祝福 B
詩篇詩人は、「主に信頼する者」と言って信頼の祝福を歌っています。
キリスト者がいつも平穏でおられるかと言うとそうでもありません。そうした中で主なる神に信頼する生き方は大切で尊いものと思えます。人は、自分に信頼したり、技術に信頼したり、人に信頼したりいたします。どれも悪いことではありませんが詩篇詩人が「主に信頼する者」であったことに学びたいものです。これが最も大切なことなのかも知れません。
1、「主に信頼する者」には恵みが取り囲む (詩篇32:10 主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。)実に豊かな表現で信頼の祝福が語られています。恵みが取り囲むとは体験的なことでしょう。詩篇詩人は「いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。)とも歌っています。パレスチナの土地は砂漠地帯ですが湧き水のある所に小さな流れがあります。砂漠の中の水の流れオアシスにはいのちのいとなみを見ることができるのです。創世記49:22「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。」とあります。ヨセフほど困難に直面した人はいないでしょう。そのどこを見ても神への信頼に生きているのです。その結果パロに次ぐ権力者として活躍することとなりました。ヨセフの生涯を学ぶ時、主への信頼の祝福を確実に見ることができるのです。詳しくは創世記を読みましょう。
2、主に信頼する者つまり「正しい者」は「主にあって、喜び、楽しめ。」詩篇32:11 「喜びの声をあげよ」とも歌われています。この喜びは、
☆罪が赦された喜びです。(詩篇 32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。32:2
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。)
☆疲れ果てた時の慰めです。(詩篇 32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。)
☆罪を告白した後の喜びでした。(詩篇 32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。)
☆主に目を留めていただく喜びでした。(詩篇 32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。32:9
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。)
これらの中の一つでも自分のこととして当てはめる時、今まで知ることのなかった祝福を意識するのです。信仰生活は知識だけではないことが良くわかります。聖書の内容を知って生活化してゆくことです。
ステパノのことを使徒の働きを読むと信頼する祝福がよく理解できるでしょう。使徒の働き7章はステパノの説教です。後半にはステパノの殉教のことが記されています。その記事の中で心に留めたいことは、ステパノが死に直面してもキリストへの思いを明確にしていたことです。死に直面して神への信頼に生き、それ以上に自分を死に追いやろうとする人々を祝福しているのです。驚くべき信仰の姿です。
3、主に信頼する者その人は「正しい者」(詩篇 32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。)「悪者:10」と「正しい者:11」のことが記されています。このことを最後にしたのは、正しい者理解が明確になるようにしたいからです。正しい者とは、「主に信頼する者
:10 」のことです。
一般的には、不正をしない正直が正しい者と理解されます。これは重要なことで不正がある人に物事を任せることはできません。信頼のおける人にものごとは託されるのです。
聖書の世界の「正しい者」は基本的なことで、主なる神に信頼して生活している人のことです。ここから人の生活の信頼性が生まれて来るのです。主なる神に対して不誠実な人は、人に対しても不誠実です。信用ができません。しかし神への信頼に生きる人は困難な中でも人々から信頼される生き方をいたします。もちろん神に喜ばれ自分も神を喜ぶ喜びに満たされます。この喜びは一味違った喜びで消えることのない尽きることない喜びです。それが
信頼の祝福として確かにされるのです。
日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
富 澤 誠
治