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| 詩の友 第94号 1988年2月 |
94号の富澤誠治作 お便り お便りの 大半は 詩篇のことば 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。詩篇4篇3-8節(新改訳) 聖書(みことば)からの お便りが 感動をもって 心にせまり 力と励ましになる こんな喜びは 他にはない 雲 晴天に ひとすじの雲 横になびき 朝日を受けて 美しく輝く 雨天に 雲たちこめて 人の心を圧す くもり空 雲の切れ目から 光さしこむ なんとも美しい 真昼の雲 上から 太陽の光に 照らされて 下側は灰色 いつも 光に照らされている それが私の幸福 土の上を歩く 都会の中の 公園へ 歩道から入り 土の上を歩く ちょつと弾力があり 足に心地よい こんな発見は 都会の中にいないと わからない 都会の 歩道は 石だたみ 車道は アスファルト 砂ぼこりが 舞い上がるのは 公園の中 なのに 土の感触が たまらなく 心地よい 子供のころの 道は 大きな穴 小さな穴が いっぱいで 雨の日には 車に泥水を はねかけられる 晴天の日には 家の中まで 土ぼこりで 色づいてしまう 同じ土 それがいま 足に心地よい |
| 詩の友 第95号 1988年4月 |
95号の富澤誠治作 一枚の押し花 本にはさまれた 一枚の押し花 なつかしい 思い出がこめられ 手に取るごとに その日の 情景が目にせまり 痛ましいこと うれしかったこと 怒りにもえたこと 日付は わからなくとも 思い出される 神のめぐもと 聖書のことばによる はげましが いつまでも 残る そんな 毎日を過したい 神は その願いを かなえてくださる 記念の石 1983年1月19日 多摩川石 ゆり 中一 マラソン 二十三位 記念文の書かれた石 この石 もう捨てようかなあ 娘の ゆり が そう言いながら持ってきた そう言えば キリシタンの 殉教者の島 瀬戸内海の 鶴島を 尋ねた時に 記念にと 持ち帰り 自分で造った 備前焼のつぼと 組み合わせて 花入れとして持っている それを見るたびに 信仰をもって つらぬいた人々のことを 思い出す 殉教者が出るような 時代にならないように 宣教の自由が 礼拝の自由が 守られるように祈る 聖書から 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。 十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。詩篇92篇1-3節(新改訳) 主に感謝するのは 良いことです 感謝すると 主をさんびすると 心が変えられて 晴れ晴れとして やっぱり 生ける主 神に お頼りしてよかった こんな大きな めぐみをひとりじめにせず 日毎に 人々に言いあらわさなくては |
| 詩の友 第96号 1988年6月 |
96号の富澤誠治作 花にさそわれて 花にさそわれて 種をまき 芽が出るのを見 育つのを楽しみ 花を喜び ふやそうと心豊かになる 花にさそわれて 挿し木をし 根づいたのを見 育つのを楽しみ 花を喜び ふやそうと心豊かになる 花にさそわれて 株分けし 花を喜び やっぱり ふやそうと心豊かになる 聖書に 養われて 福音を伝えると 心豊かになる 押し花 娘から 押花器のプレゼント 花が平らに のばされて 色あざやかに 仕上る 押し花を台紙に張り 聖書のことばをそえて プレゼント 聖書のことばを 送るのも喜び 中日新聞から どんなに日当たりが悪くても どんなに土がやせていても そこに向く草や木はあるもの あまり肥えた土では アゲラタムは花はつけず あまり日当たりのよいところでは シダは育ちません 花を作るとは その花の好きな環境を 作ってやるだけ 花はひとりで咲き ひとりで実を結ぶのです こんな詩を発見して 花にさそわれる人が あちこちにいる それがうれしい |
| 詩の友 第97号 1988年8月 |
97号の富澤誠治作 押花 花を見ると 押花にしたくなる 教会堂の屋上で 咲いた花すべてが 押花の材料 立木ベコニヤは 赤があざやか ギボシは 薄紫がきれい ネジリ花は ピンクでも 押花にすると 茶色に変ってしまう わざわざ 押花にと とどけられた花を合せて 額装 とうとう 詩集をそえて 押花展になってしまった ギャラリーから "押花展をしてみませんか" お誘いも受けて とてもうれしい 一番 喜んでくださるのは ゆりの花のことを 考えて見なさいと 言われた イエスさまにちがいない 聖書 読み始めて 何回読了しただろう 時には 三年かかって やっと読了 一年に一回は 読了しようと 決心して 何年になるだろう 本年は 三回は読もう 決心して 達成できそう 心臓病を得て できるめぐみ 何回読んでも 聖書は 毎日毎日の 心の糧 読んでも読んでも あきることがない 読めば 読むほどに 神のことば それを実感する 聖書のことばに 支えられ 励まされ 生きる 生かされている めぐみを きょうも ふかくふかく かみしめる 使命に生きるめぐみを かみしめる 目覚める幸い 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。黙示録3章2節(新改訳) メッセージを 語る前の 主日礼拝の朝 祈りの時 聖書通読の 箇所から 得た聖句 その日を生かした聖句 主日のすべての 予定を終了し 満ちたり "感謝" の 言葉以外はない 一番目覚めたのは 牧師である 私だったのだろう 私だけでなく 教会のすべての人が 日本のすべての人が 世界のすべての人が 目覚める幸いを 得てほしい 創造された 世界から 人と人との 関係の中から 創造主なる 神に 目覚めてほしい 喜び 家族が なごやかに 暮らしている喜びもあり 物が豊かで 不自由のない 喜びもあり 自分の好きなことを 楽しみつつ 行う喜びもあり もうけて 喜ぶ 喜びもあり 人の世界には 計り知れないほどの 喜びがあるように 見える 旧約聖書の 預言者ハバククは 私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。ハバクク書3章18節(新改訳) 人々の 真の喜びは 何なのか 明らかにした ことばではないか 夏 成人を迎えた 長男は 松原湖へ 娘は サークル活動で 鳥羽へ 子供たちは それぞれ巣立ち 夫婦だけになるだろう でも与えられた使命は変らない |
| 詩の友 第98号 1988年10月 |
紙上説教 「あなたの健康のために」 富澤誠治 新約聖書 ペテロの手紙第一 4章10節に「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(新改訳)と記されています。 つまり私たち人の健康は神からの賜物であると理解することができるのです。また健康は管理され互いに仕えるために用いられるべきものなのです。 しかし実際には自分の健康について不安を持っているというのが現実です。近くの書店に行き健康について記されている本をメモしてみました。三十五冊の本が書棚に並べられているのに驚きました。それ程、健康について深い関心がよせられているということでしょう。 私たち人は、衣・食・住、どれも欠かすことはできません。毎日生活をしています。そうした中で大切なことを忘れていることがあるのです。それは所有者ではなく管理人という意識です。 良く考えて見れば、私たちは何でも所有しているのではなく実は管理がまかせられていると言うことです。それがいつのまにか自分が所有しているかのように考えてしまいます。 具体的に言いますと自分で働いて得た給料だ自分の自由にしたい。誰でも身に覚えのあることではないでしょうか。しかし今生きているのは自分の力によるのではないのですね。いのちは与えられたものです。お与えくださったのは神です。自分の存在原因は神にあるということです。このことを認めないと自己中心的な生き方をするようになるのです。何もかも自分が所有者であると考えてしまうのです。 その結果、互いに仕え合うことはありません。与えられているものを用い役立てることはありません。つまり与えられているものを管理し役立てることがないのです。 与えてくださった神のために、管理し役立てません。与えられたいのちを大切に管理し役立てません。与えられた時、与えられた財、与えられた健康、与えられた才能、これらのものを管理し役立てません。キリスト者には加えて福音の奥義が与えられています。 神から与えられているものを管理し役立てることが真の健康だと思うのです。たとえわずかしかなくても良く管理し役立てるならば、その人は健康な人と思えるのです。 NHKの特別番組で紹介された星野富弘さんは、新任の体育の先生でしたが演技の事故で不自由な身になられました。それでも今は、口に絵筆をくわえて絵を、そして詩を書かれ、その生きざまを絵と詩によって多くの人々に、励まし・慰め・希望をもたらしています。 キリスト教専門書店調査によると今読まれている本のベストテンの一番が星野富弘さんの詩画集「鈴の鳴る道」(偕成社刊)だそうです。 星野富弘さんは、足も手も使えません。しかし口にくわえた絵筆を用いているのです。わずかな機能を役立てておられます。その詩画集を見るとわずかなものしかなくても健康な人と感じます。 人から見れば苦しくつらいことと思われるものを神がお与えくださったものと信じ与えられているものを管理し役立てておられる姿に健康を発見するのです。 |
| 詩の友 第99号 1988年12月 |
99号の富澤誠治作 エルサレム 「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」詩篇137篇5.6節(新改訳) 1981年春 エルサレムをおとずれた その時は 飛行機に酔ってしまい こんな苦しい 飛行機の旅は もうごめんだ思っていた それが一年を経過した今 エルサレムがとても慕わしい 野のゆりの里だからだろうか 信仰の父アブラハムが イサクをささげた地だからだろうか ソロモンの神殿が 建てられた地だからだろうか イエスが十字架に つけられた地だからか 一度おとずれたからか わからない とにかくエルサレムが慕わしい 同じ地球の上に住んでいるのに 1982年 春 来る元旦から十三日間 "聖書の世界を確かめて見る祝福" を テーマに 聖地旅行が実現する 確かめていただきたい 願いがかなった 喜びとともに 1988年12月 秋の色 枯れ枝が だんだんふえてくる 十一月の天城山荘 枯れ枝になる前に 色あざやかに 紅葉して 私を 楽しませ 冬の姿に なって行く モミジ 春には 新緑の 美しさを 夏には 日かげのすずしさを 冬には 葉はないが 太陽の光を 地表に送り 温まりを 季節に したがって 与えている どの時季も モミジの 役目をはたしている その時の 役目を私も はたさせていただこう キリストによって キリストがあがめられるように |