以前の詩
| 詩の友 第89号 1987年2月 |
紹介 「よろこびの泉」 日本ミッション機関紙 ぶどうの実 土屋和美 朝の食卓に いろいろな種類のぶどうの実 その一つ一つを口にふくめば 秋のはじめの さわやかさがひろがる 季節にぴったりの 風味をつくり給うた 神の御知恵よ それを味わえる 舌をつくり給うた 神の御愛よ ぶどう ぶどう 濃い紫の大粒や みずみずしいみどりや 小さいうすい赤い実などが 収穫されている ある日 人のたましいの収穫される日 神様は 霊の実りを 一つ一つ手にとって ごらんになるだろう そして 聖く愛に満ちた実を 喜び楽しまれることだろう 毎月発行の 「よろこびの泉」 かならず 一面をかざる キリストを知らしめ 心になぐさめ あたたかさを もたらす詩があり 変えられた人生の 喜びが あふれる紙面 かならず 聖書からの 喜びを得る 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネの福音書15章5節(新改訳) 投稿 「大会に参加して」 堤 清康 警告音ひびかせながらひた走る記念大会におくれじとして 聖別されめぐみあふるる会場に再会よろこび集う人々 九十五周祝う記念の大会歌天城の山にひびき流るる 投稿 「暮しの中で」 谷口幸子 なぜに人を責むる思いのいでしならん欠けのみ多きみずからにして またしても人責むる座にわれのいてしばしもだすもついに流さる 人責むる思いのあとにおそいくるうしおのこどき悔いなわすれそ 投稿 「淋しさ」 森 健二 午前九時 青空を仰ぐと 月が見える しかし光彩がない 近くにうかぶ 白雲と同じだ あの仲秋に見る 明るい輝きは どこへ行ったのか 光を失った月は 淋しい 世の光と言われた人も 輝きを失えば その姿は 淋しいだろう 89号の富澤誠治作 平和の祈り 国民学校三年生 四一年も前のこと でも あざやかに覚えている 町の中から 田舎へと 疎開したあの日 大八車で 荷物を運んだ日 遠くに見える 学校の月山の緑 それを目当てに 一本道を歩いた日 毎日遊んだ 友だちと 別れた日 でも 疎開先で 友だちができた日 たった一人の 友だちができた日 その友は 一夜の空襲 焼夷弾の 直撃をうけ 死んでしまった その時の 心の痛み 悲しみ 今も あざやかに覚えている 戦争はいやと |
| 詩の友 第90号 1987年4月 |
紹介 「出会いの歌」 いのちのことば社刊 目に映るものすべてが今までとは違う 歩きなれたこの通りでさえ ビルの谷間を行き交う見知らぬ顔も とても親しい人のようだ すべてが美しい 今までとは違う すべてが美しい 今までとは違う 愛を知ってから イエスに出会ってから 投稿 「ボケの花」 森 健二 花なく淋しい この寒空に ボケの花が咲いている 花のない時 咲く花は 人の心を よろこばす この寒空に咲く ボケの花 投稿 「母子讃歌」 堤 清康 母と子の合唱の手振り不揃いに讃美の楽しくもあるか 幼らの体いっぱい手振りする親子讃美の様を見守る 投稿 「冬」 鈴木きよ子 折り紙にしたためてあり雪だより 真っ白な寒さの中の干菓子かな 卒寿の人カーネーションを画き賜う 90号の富澤誠治作 天城山荘へ来ると 遊歩道を わずか歩めば そこに スミレが咲き ふきのとうは 花になり 野イチゴが 枯葉の 茶色と 冬を越した 緑の中で 真っ赤に色づいている 雑木林の中へ 入れば 天城春らんが つぼみをつけて 春を告げている 天城へ来ると いつも新しい 発見がある 神のことば 聖書を読めば そこに 新しい発見がある 「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」ローマ人への手紙14章19節(新改訳) 人生で 追い求むべき ものを 発見する 集会に出れば 講師が語られる 言葉の中から 新しい発見がある "エリシャのシャローム" 相手を理解する祝福 "イエスのマスト" 一人を愛する祝福 仲間と語り合えば そこで 新しい発見がある 天城山荘へ来ると いつも 新しい発見がある |
| 詩の友 第91号 1987年6月 |
紹介 「百万人の福音」 いのちのことば社刊 「茎がふくらんでいるラン」 星野富弘作 その一つから花が咲き その一つから葉が出る 一つに総てが含まれ 一つに総てが現わされる それがなくなったら 私もなくなってしまうような ただ一つがある 巻頭をかざる 詩と絵 毎月感動が伝わって来る (これは1987年のことです。) 投稿 「不思議ネ」 沢村せい 不思議ネ この世界 五月 空にさわやかな朝 そよそよ吹く風 若葉のにおい 赤 白 色とりどりの花々 空にはひばりの鳴く声 不思議ネ 世界中が美しく輝いている 太陽も 月 星も 91号の富澤誠治作 すみれ 都会の どまん中 コンクリートの 割れ目から育った すみれが むらさき色を 太陽に向けて そっと咲いている 一粒の種が 落ちたのだろうか いつから 育っているのだろうか わずかな割れ目にそって 一列に 花を開いている 街路樹の さつきや つつじは 長い日照りで 枯れたのもある その時の すみれは 葉を黄色に そめて 痛々しい でも 早春に 花を咲かせ たくましい すみれを 見ていると はげまされる 幸いなこと 幸い それは 誰でも求め みんな 自分なりに 頭の中に えがいている ある人は具体的に ある人は ぼんやりと 聖書は 時代を超えて 語りかけている 幸いなこと それは 罪を 赦されていること 幸いなこと それは みことばを 守る人のこと 幸いなこと それは キリストに 信頼する人のこと 聖書を 神のことばと 信じる人には よくわかる 駄目にしない 駄目なものを 駄目にすることは 誰にでもできる 駄目なものを 駄目にしない これは無から有を 造り出すお方しかできない 聖書 何回読んだだろう 回数は 覚えない 何回読んでも 新しい発見がある 人の歩みは 主によって 確かにされる 主は その人の道を 喜ばれる その人は 倒れても まっさかさまに 倒れはしない 主が その手を ささえておられるからだ 詩篇37篇23.24節 参照 落ち込んでしまっても みことばにはげまされて はいあがり 歩みが 確かにされ 倒れても 動けなくなることもなく みことばによって ささえられては 新しくされ 目標をもって 歩み出す みことば聖書の著者は 今も 生きておられるから 花一輪 ブラジルから とどけられた 原種のラン 六年目に 花をつけ 香りを ほのかにただよわせ お国を 紹介している まだ見たことも おとずれたこともない 国なのに 身近に感じられる 言葉も 生活も 違うだろうに 一輪の花が 人と人とを 近づける くださった方に 花の写真を送り 共に喜ぶ |
| 詩の友 第92号 1987年8月 |
紹介 「試練に勝つ」 教会新報社刊 自分たちは廃人になりたくない・・・・・ 自分の責任にかけて生きてゆきたい たとえ小さな働きであっても 自分で汗して働きたい 手 足の自由はそこなわれていても 働く使命は失われていない (聖恵授産所要覧 冒頭言) これと並んで 「わが恵みなんじに足れり。わが力はなんじの弱きうちに全うせらるるなり。」Uコリント12:9. 聖書のことばに 支えられて 筋ジストロフィー障害度一級 聖恵授産所所長 井原牧生牧師 障害を持たれた方々と 共に生き 共に苦しみ 共に喜ぶ 生きざまが あらわされている ご自分の 障害を 神の恵みと 受けとめて 学び ふるい立ち 人々の 理解を 勝ちとり 良き働きをしておられる 健常者は この姿に もっともっと 学ばなくては・・・・・ 投稿 「いこい」 森 健二 畑にて 雑草と戦い 汗流し 日陰にいこえば 吹く風涼し 見上ぐれば 白雲の下 トンビが舞う 人を教えるものは 聖書と大自然と 誰かが言った 92号の富澤誠治作 陶器 岡山県備前市で 陶器の とりこになってしまった それ以来 各地の 焼物の 美しさに 出会う 百円 二百円のもの 百万円 二百万円もするもの もとは 同じ粘土 心ある人に出会うと 焼物も その人の手元で 大事に扱われ 年月を過す 名品は 飾りもの 宝として 人の心に 感動を 生み出している それでも もとは 同じ粘土 ああ あなたがたは 物をさかさに考えている 陶器師と 粘土を 同じに みなしてよかろうか 造られたものが それを造った方に 「彼は私を造らなかった。」と言い、 陶器が 陶器師に 「彼はわからずやだ。」と言えようか。 イザヤ書29章16節(新改訳) 心の平安 小さなできごと なんでもない言葉に 心を痛め 平安を 失ってしまう 弱い現実 大きな事件には ますます しょげかえり 心の平安を 失ってしまう 弱さを負う者が 神のことば 聖書のことばを 受けとめる それだけで 平安を 回復する 不思議な 事実に驚く 神である主は こう仰せられる 「あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」イザヤ書49章23節(新改訳) |
| 詩の友 第93号 1987年10.12月 |
紙上説教 「ペヌエルのめぐみ」 富澤誠治 旧約聖書に登場する人物にヤコブと言う人がいます。ヤコブとい名前の意味は、取りかえる人ともおしのける者とも言われます。 事実ヤコブは、兄エサウの長子の権利をアドムと言う赤いものの煮物で買い取ってしまったのでした。後には父から長子の祝福をだまし取ってしまったのです。 そんなことがあってヤコブは、エサウと共に生活することはできません。兄エサウから逃れて母の里、ラバンと言う人の所へ行ったのでした。 ラバンのもとでもできごとがいくつもありました。その一つはラバンの娘ラケルとの大恋愛でした。またラバンのもとでの労働、どれもドラマです。そこで家族を得、財を得たのでした。時が熟してヤコブは、神の命令もあって、両親・兄エサウの住む地に帰ることとなったのです。過去のことを思うと兄エサウの仕返しを受けるかも知れません。恐怖に満ちていました。 ですから兄エサウに何回も贈り物を先に進ませ、なだめた末に兄に会おうとヤコブは行動したのでした。旅も進みヤボクと言う所に来た時、ヤコブはある人と格闘したのでした。旧約聖書 創世記32章には「人」と表現されていますが、それは神との格闘でした。 これは、ただの格闘ではなく、神との交わり、祈りの格闘でした。人が神に勝てるはずがありません。しかしヤコブは神と祈りの格闘をしたのです。その格闘があまりにも激しかったのでしょう。神はヤコブのもものつがいをはずされたためにヤコブは不具になりました。でもそれからはヤコブとはいわれずイスラエル(神の皇太子)と呼ばれる祝福を得たのでした。 その時、神にお会いし神が共にいますことを知って不安は去り平安を得ました。その時の心境をペヌエルと言ったのです。ヤコブは不具になりましたが弱さとはなりませんでした。へりくだりを学び神の祝福にあずかる原則を身につけたのでした。 私もペヌエルの恵みに感動しています。10月14日胸に激痛、すぐ近くの病院へ入院、続いて21日には循環器専門病院へ紹介転院、冠動脈れん縮による発作であることが判った。心臓に病気のある不具が明らかになった。 しかしヤコブのできごとは、私にとっても事実になりました。弱さが福音に仕える使命の確信となったのでした。 ペヌエル 旧約聖書のヤコブ 彼は自分の力 失い そのとき得た 感動のことば それがペヌエル 神にお会いした 感動のことば それがペヌエル ペヌエルは私のめぐみ ここはペヌエル ここがペヌエル ここもペヌエル 退院を待つ入院中に福音に仕える召しを再確認できたことは大きな感謝であった。11月18日退院できて、福音に仕え、詩の友も発行できるめぐみをキリストに在りてかみしめています。 (10.12月合併号は、理由があったのでした。今、詩の友をインターネットで発行できることを感謝しています。) 93号の富澤誠治作 川床 源流は 岩場 そこから水が涌き出 少し川をくだると ごつごつした 大石 そこを水が流れ もう少し 流れをくだると かどがとれて丸くなった 中石 その流れはゆるやか それをすぎると 小石の集合となり 砂地となって 水をたたえている 川床を見ながら 人生のドラマを思う 空 秋の青空 朝には雲一つなく 昼には どこからともなく 雲が満ちて 夕には 雲一つない空になる それを見ているだけで 心は満ち足りる 晴天に 小鳥の群が 渡り行き にわかに空も にぎやかになる 窓の外に見えるビルは いつも同じ ところが 空はちがう しばらく見ていると 雲の形は変り 色も変り 見あきることがない 秋雨の空 落葉樹は 色づき 木の葉を はらはらとちらし 風情をそえているのに 空は何時間も 灰色で変りない 秋のくもり空 雲の間から 光差し込む ただそれだけのことが 人の心をなごませ 話題が起り 明るい雰囲気をもたらす 夕焼の空 誰言うとなく "きれい" そのことばに さそわれて 空をながめに 集まって来た人に さわやかさがおとずれ 明日への希望が できている (名城病院入院中のことのようです。) |