詩篇119:25〜32
119:25 私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。
119:26 私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。
119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。
119:28 私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。
119:29 私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。
119:30 私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。
119:31 私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。
119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。
みことばのとおりに
聖書の中で一番長い篇(章)から見ることにいたしましょう。
詩篇の119 篇は、ヘブル語のアルファベットが区切りの始めの文字で始まり各節は、そのアルファベットによって始まります。25節は、ダレフ と言うヘブル語アルファベット四番目の文字から始まっています。
1、みことばのとおりにと言う前に
「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」と歌われていることばに注目しましょう。これは悔い改めを表明している言葉です。ヘブル語は、くっつくとか一緒になることをあらわす文字です。つまり詩篇詩人はちりと同じになることをあらわしているのです。
悔い改めとは、自分がちりそのものであることを認めることのようです。
最近は、自分を小さく見ることは歓迎されません。むしろ自分の中にある可能性に目覚めることを大切にする時代です。そのために真の悔い改めができなくなってしまっている時代です。そのような中で詩篇詩人の心を汲み取りましょう。自分自身が神との関係で罪ある者と認め「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」と詩篇詩人が懺悔している姿に倣いたいものです。その真の悔い改めは何を産み出すのでしよう。
2、謙虚な求めとなるのです。
「あなたのみことばのとおりに私を生かしてください」と祈ることとなるのです。自分の願いのようにではありません。なんと「あなたのみことばのとおりに」と自分を神のみ手にまかせます。
これが人が持つべき心です。自分の願っているようにではありません。神のお心が自分と家族になされるように、国に世界になされるようにとなるのです。この心が起こると人の中に不思議な神からの平安があふれます。人は心に平安を持つと自由になります。こだわりや束縛からの開放が起こるのです。これが真の悔い改めの結果です。続いて起こることが、
3、具体的な祈りです。
「私を生かしてください」と祈られているのがそれです。自分が生かされないでどうして他を生かすことができるでしょう。詩篇詩人はこのことを良く知っていました。だからこそ
"私を生かしてください" と祈ることができたのです。
この祈りは、イエスさまのゲッセマネの祈りと共通いたします。(マタイ26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」)に、その祈りを見ることができます。罪の無いお方が罪人とされることが目の前に迫っています。ひどい心の痛みだったでしょう。しかし祈りの中でイエスさまは勝利されました。「あなたのみこころのように、なさってください」と祈ることができたのです。この祈りの勝利が無かったなら、私たちの救いもなかったのです。神が人となられたイエスさまから祈りを学ぶために、(マタイ 26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。 26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。 26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。 26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」)特に39節を意識しましょう。イエス様は「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られました。この祈りが私たちのための十字架の救いにつながっているのです。全体はゆっくりと丁寧に読んでみましょう。
「あなたのみことばのとおりに私を生かしてください」と祈ることは、自分も生かされ家族も国も世界も生かされることとなるのです。詩篇詩人の祈りを自分のものとしたいものですね。
日本同盟基督教団無任所正教師 富 澤 誠 治