イザヤ51:4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
聞くことについて
イザヤは自分の民族に神の立場から語り掛けています。ここでは神の語ることつまり預言者によって語られることに耳を傾けるべきことが語られています。聞くことは人間関係において大切なものです。聞くことができるのは幸いです。聞くということを人間関係だけに絞らないで枠を広げて聖書の中の"聞く"を調べて見ましょう。
1、聞くことは、主の御声を聞くことです。詩篇95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、95:8
メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
イザヤは、神の語りかけにいのちをかけたのでした。(イザヤ55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。)と激しい言葉で命令として語ります。この箇所を筆頭の聖書箇所として選ばなかったのは、あまりにも激しい言葉と感じたからです。それほどイザヤは人にとって神の御声を聞くことは重要で幸いなこととしていたのです。だから激しい言葉になったのです。
これは今も変わりはありません。詩篇詩人が言うように、聞くことに失敗することがないようにしなくてはならないのです。詩篇詩人が言う出来事は、出エジプトをしたイスラエルが荒野で不信仰に陥ったことをいっているのです。これはヘブル人への手紙3章(ご自分の聖書で読んでください。)に安息に入れないことと関連して記されていることです。民数記20:1〜13 (ご自分の聖書で読んでください。) に詳しく記されています。大指導者モーセも、主の御声に聞くことに失敗してしまいました。岩に命じるように言われていましたが二度打ったのでした。(民数記20章 8節と11節) そのためにモーセはカナンの地へ入ることは許されませんでした。聞くことに失敗があってはならないことがよくわかります。
2、聞くことは聖書からです。(ルカ16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』)
ルカの福音書16章19節から読むとよくわかります。金持ちと貧しいラザロのことが記された箇所です。金持ちは悲痛な叫びとして親戚の者にラザロを送って戒めてもらえるように懇願しているのです。しかしイエスさまの言葉は、「29節
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」と語られたのです。つまり「モーセと預言者」に聞くことは聖書が語っていることに耳を傾けることだったのです。それなくしてラザロが親戚の所へ行っても聞くことはないと警告されているのです。
神の言葉、聖書に聞くことがどれほど重要なものであるかがわかります。
3、聞くことのききんがあるといわれています。(アモス8:11 見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。)
みことばに聞くことの重要性が良く理解できたでしょう。しかし聞かないならば、「主のことばを聞くことのききん」なのです。イザヤの時代の人々がそうでした。現在の私たちも大差はありません。
☆みことばに聞くことは訓練されなくてはなりません。その訓練は時間の聖別であったり、努力であったりします。みことばに聞くことは自動的にできてゆくものではありません。
☆みことばに聞くことは聖霊のお働きです。聖書を読みたいと思うことは聖霊のお働きなのです。その時に聖書を読まないで終わってしまうことがないようにしたいものです。
4、聞くことは信仰につながります。(ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。)
みことばを聞くことは、必ず豊かな信仰生活につながります。自分も豊かさを経験します。同時に周囲の人々にも豊かさを持ち運びます。
みことばをしっかりつかんで生活する人は確かな歩みをします。信仰人物伝を読むとその人々の共通な特徴として聖書の言葉によって生活する姿が見えます。キリスト信仰人物伝に登場する人がはじめから内容のある生活ができたのではありません。聖書の言葉に支えられ、聖書の言葉を思い出すことによって力が与えられて生きて来た人の姿を見ることができるのです。私たちもそうありたいですね。
日本同盟基督教団無任所正教師 富 澤 誠 治