イザヤ書 12:1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
慰めの必要
人であるかぎり、どんなに強そうに見えても "慰めの必要" があります。人は慰めの必要な存在といってもよいでしょう。真に慰められている人は自分の力を健全に発揮いたします。イザヤは神からの慰めを確実に受けていたようです。こうした在り方が大切なのです。
1、過去の事実によって慰められました。イザヤ12:1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
神は今まで、イスラエルを救いによって慰められました。エジプトからの救いは忘れることのできない民族の慰めです。その救いは「あなたの怒りは去り」といわれるような神のさばきからの救いであったのです。
私たちの場合もキリストによる救いを受け止め信じるとき何物にも優る慰めを得るのです。それは救いの喜びです。キリストの救いはキリストの十字架の救いです。救いを自分のものとして意識するのは同一ではないようです。救いへの道は一人一人異なるのです。だから、あかしが可能になるのです。その人でなくてはならないあかしがあるからです。
イザヤは「あなたの怒りは去り」ましたと言うとき、自分もイスラエルの人々にとっても救いであり慰めそのものでした。なぜなら神の怒りは去りむしろ救いと慰めだったからです。
2、労苦の終わりの宣言によって慰められました。イザヤ 40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
ここには「その苦労は終わり」とあります。苦労が終結することは大きな慰めだったでしょう。苦労が続くことは痛みです。それが終わるのですから慰められないはずはありません。
私たち人の場合、苦労の終結を宣言することはできません。苦労の終結宣言ができるのは神意外にありません。苦労の終結それは実際にはなかなか信じられないのが普通でしょう。課題の連続の中で苦労の終結を信じたイザヤの信仰は素晴らしいといえましょう。これは私たちも学び取らなくてはならないメッセージです。
苦労の終結は、◎天のみ国の民として召された時か、◎キリストの再臨の時か、◎イザヤのように神の語りかけを聞いて信じることによって苦しい現実を乗り越える形で実現するもののよです。どれか一つでも自分のものとすると信仰の豊かさとなるでしょう。
3、主なる神に慰められました。イザヤ49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。
慰めの根源となることが語られています。それは主なる神の "慰め" でした。慰めは人から来たり、言葉によって来たり、多様性があります。もっとも大切な慰めは主から来る慰めであって、この慰めこそ根源的なものなのです。
新約聖書には、慰めが、
☆聖霊の慰めとしてあらわされています。(ヨハネ 14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。)がそれです。
聖霊は助け主として私たちのうちにいてくださるのです。困難や苦しい状態は変わらないのに平安でおられるのは聖霊の慰めによるのです。また、
☆キリストの慰めとあらわされています。(第一コリント 1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。)
がそれです。キリストによって慰めもあふれるのです。
これら一連の表現は、三位一体の神による慰めということです。神は能力の限りを尽くして慰めをお与えくださることがあらわされているのです。人間的な表現に直すならば、神は総力をあげて慰めのために臨んでくださるということです。
☆キリスト者の一致の中に慰めがあるようです。(ピリピ 2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。)
キリスト者の一致とは、キリストの救いを共有していることです。それにともなうことはお互いに祈りによって一致することが慰めになるのです。教会でも家庭でも仲間との間でも祈りが豊かになりますように。
日本同盟基督教団無任所正教師 富 澤 誠 治