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誌上礼拝
2015年 1月 「支えられる幸い」 
聖書の言葉

第二サムエル22:17〜20
22:17 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。
22:18 主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。
22:19 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。
22:20 主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

「支え」られる幸い

 きょうの箇所は第二サムエル22章全体にわたっています。(ご自分の聖書で読みましょう。)内容はダビデがサウルの手から助け出された時に歌ったものです。その中の一部の「ささえ」られる幸いを見ることにいたしましょう。
1、「ささえ」は、頼みをあらわすことばです。
 ささえはヘブル語でミシェンで頼みを意味しています。ダビデがミシェンと言う時、それは神がささえてくださることを信じることであり、また神を頼みとしていた心があらわされています。だからサウルにいのちを狙われた時にも自分で手を下しませんでした。神のみ手にゆだねて、神のささえを信じ、神を頼みとしたのでした。
 パウロも神のみ手にゆだねた時のことを「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる…」(ローマ8:28)と言ったのです。
 真実に神がささえてくださることを信じた人も同じように告白するようになるでしょう。
2、「ささえ」は、助けをあらわす言葉です。
 ささえは同時に「助け」です。(第二サムエル22:20 主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。)ヘブル語の「助け」は、消極的には、離れることであり、撤退することです。敗北のように感じるでしょう。離れ撤退することは勇気のいることです。その時を逃すと真の敗北につながることとなるのです。積極的には、救いであり、自由にされることであり、喜びでもあります。
 きょうの箇所の第二サムエル22章全文を読む時、助けられた実感が伝わってきます。ダビデは何度もいのちの危険に直面しました。そのたびに守られ助けられたのです。一度はサウルの槍の攻撃から身をかわしたことでした。(第一サムエル18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。18:11 サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。) もう一度はサウルから逃れてガテの王アキシュの所へ行った時のことでした。(第一サムエル21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。 21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」 21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。 21:13 それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。 21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。 21:15 私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」22:1 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。)その他にも危険に直面したことがあったのです。そのたびに離れ、撤退することができました。そして、神の助けを実感したのでした。またダビデは状況に適した行動をすることのできる知恵のある人でもあったようです。
 神の助けは敗北のような、離れ、撤退する勇気の中にあるような気がいたします。
3、「ささえ」(助け)は、救いでもあります。
 神のささえである助けは、積極的には救いです。救いには、「広い所に連れ出し」(第二サムエル22:20)と言われるように自由にされることであり、また「主が私を喜びとされた」(第二サムエル22:20)と言われているように、救いの喜びがともなうものです。
 救いは、ダビデにとってはサウルからの救いでした。いのちを与えられたことでした。そして王としての道が開かれて行くことでした。それはいのちを狙われない自由であり、救いの喜びだったのです。これは、
 私たちにとっても共通なものがあります。
☆悪魔の束縛から自由にされることです。
 キリストが十字架につけられたのは敗北のようです。しかし復活によって悪魔に対する決定的な勝利をされました。その勝利が私たちにもたらされ悪魔の束縛からの自由が与えられているのです。
☆救い主キリストによる喜びに輝くのです。
 キリストがお与えくださった救いの自由によって、ささえられる喜びに輝くのです。


      日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
                                 富 澤 誠 治

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