エレミヤ5:1 エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。5:2 たとい彼らが、「主は生きておられる」と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ。(エレミヤ5章全部をご自分の聖書で読みましょう。)
指摘されること
きょうの箇所はエルサレムの罪が指摘されている記事です。それがエレミヤ5:1〜9
に、☆「公義」が行われていないこと、☆「真実」を求める者がいないこと、☆「不倫」があったと記されています。これでは指摘されて当然です。
1、「公義」について調べてみましょう。
「公義」は正しさをあらわす言葉です。それを「広場で捜し」て見るようにと言われています。エルサレムの広場は、商売の場であり、情報交換の場でもあったようです。そして裁判が行われる場所でもあったようです。商売においては偽りの計りが用いられ不正が行われていました。情報交換も正しいものではなかったようです。人をわなに陥れるような情報があふれていたようです。裁判も正しいものではありませんでした。すぐに不正がわかるようなものであったようです。神はエレミヤに「見て知るがよい。(エレミヤ5:1)」と言われたのです。エルサレムには「公義」も「真実」もありませんでした。
私たちの国では広場の文化はありません。広場の役割を理解するのは難しいか知れませんね。外国へ行くと広場で何が語られ何が売られているかわかれば、その国の実情はすぐにわかるようです。
エルサレムの広場では「公義」も「真実」も行われてはいなかったのです。それが罪として指摘されているのです。
2、「真実」について調べましょう。
「真実」は、信頼性をあらわす言葉です。また忠実、誠実をあらわす言葉です。エルサレムには偽りが満ちていたのです。それがエルサレムの現実でした。
エルサレムの本来の役目は神ともにいます清さがあらわされるべき所でした。そのエルサレムに真実が無かったのです。それがエレミヤが見た現実だったのです。罪として指摘されなくてはならない現実があふれていたのです。
真実つまり信頼性がないならば何を拠り所にしてよいかわからなくなってしまいます。不幸な現実です。
現在私たちが置かれている状況もよく似ているように思われます。何を拠り所にしてよいのかわからなくなっているように思えます。このような中で確認したいことは、エレミヤが信じ従っていた罪を罪として指摘することのできるお方、神に拠り所を置くことが求められている時代と言ってよいでしょう。
3、「不倫」について調べましょう。
エレミヤ5:7〜9 を読むと何ともいやな言葉です。あまりにも露骨で声を上げて読むのも恥ずかしい思いがする箇所です。
実は、これは意味があるのです。不倫の内容は宗教的なものでした。それが(エレミヤ5:12
彼らは主を否んでこう言った。「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。
5:13 預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」)にあらわされています。不倫は神に対する反逆、不信仰であったのです。その結果として道徳は乱れエレミヤにとっては目を覆いたくなるような現実があったのです。どうしても罪を罪として指摘しなくてはならなかったのです。これが神によってエレミヤに明らかにされたことでした。救いようのない現実です。続いて読み進むと
(エレミヤ 5:18 しかし、その日にも、──主の御告げ──わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」)「滅ぼさない」と言う神の約束を見ることができます。
神の約束はキリストにおいて確かなものとなっているのです。キリストによって「公義」は回復し、「真実」も回復し、「不倫」はなくなるのです。神を崇め神に信頼して生きる生活となるのです。
ではキリストとどのようにかかわったらよいのでしよう。
聖書に記されたキリストの事実をないがしろにしないことです。キリスト教会の礼拝を大切にすることです。キリストは、私が犯した罪のために十字架で犠牲となってくださったことを信じ受け入れることです。そこに赦しがあり回復があるのです。「滅ぼさない」と言うエレミヤの預言が事実となるのです。
日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
富 澤
誠 治