ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
信仰が"なくては"をめぐって
月刊誌で、信仰のがんばりについての特集がありました。そのなかに「信仰はがんばることではない」といっている言葉に、信仰について学び直して見ようと思ったのでした。
ヘブル人への手紙の中から信仰について調べて見ましょう。
1、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」この 「なくては」が "がんばる" ことと誤解されるようです。がんばることは大切なことで否定されてはなりませんが、がんばることが、しばしば自己義認になることがあるのです。では、いったい「信仰がなくては」とは何を意味するのでしよう。この「なくては
χωρισ コオゥリス」は、離れることを意味することばです。信仰を離れて神に喜ばれることはできませんと読むこともできるのです。
ちょうどぶどうの枝が木から離れては実を結ぶことができないのと同じです。
2、信仰は「神に近づく」ことなのです。
神に近づくことは礼拝も同じです。「神に近づく」ならば神から離れることはありません。神に近づいて行くことに失敗いたしますと神に喜ばれる生活も遠退いて行くものです。
最近は、生活習慣病という言葉が聞かれます。以前は成人病と言われていました。内容は同じですが、成人だけでなくすべての人に起ることとしての表現のようです。
神に近づくことは病気ではありませんが、生活習慣という点においては似たところがあります。神に近づくことが生活習慣になることは、神から離れて生きることを防ぎます。当然そこには神に喜ばれているという安心感、平安がともなうのです。
神に近づく生活を確保したいものです。
3、信仰は「神がおられる」ことを知ることです。
神に近づくことによって確実に知ることとなるものは、「神がおられる」ことを確信することとなるのです。聖書に登場する人物はことごとく、神がともにおられることを確信した人々です。アブラハムもモーセも主の弟子たちもそうでした。歴史の中で活躍した人々もそうでした。
現在私たちも、神がともにおられることを知るそれだけで信仰生活が確実にされてゆきます。箴言3:6 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」といわれています。神がともにおられることは、生活の中で「認め」ることなのです。この「認める」はヘブル語では、知る、知覚する ことを含むこ言葉です。私たちは生活の中で、神がともにおられることを知らされることがあるのです。その時、ともにおられるお方に感謝、さんびがささげられるのです。
4、信仰は「報いてくださる方」へ、もたれ掛かることです。
起っている問題に解決が与えられることであったり、心に揺れ動かない平安であったり、神からの教訓であったり、いたします。それらは、神からの報いです。☆解決しました。☆平安です。☆教えられました。などは信仰者に与えられる報いと見てよいでしょよう。
日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
富 澤
誠 治