エレミヤ記1:6〜19
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主の御告げ──」
1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」
1:11 次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」
1:12 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」
1:13 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」
1:14 すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。
1:15 今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。──主の御告げ──彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。
1:16 しかし、わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ。
1:17 さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。
1:18 見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。
1:19 だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主の御告げ──あなたを救い出すからだ。」
不足ではない
きょうの箇所は、エレミヤが預言者として神の召しを受けた時(エレミヤ 1:5
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」)
のことです。その時エレミヤは何を言い、神は何を約束されたのかを見ることによって、今生きる私たちの糧としたいと願っています。
1、「私はまだ若くて」 エレミヤ 1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
エレミヤは若さが不足(ハンデキャップ)だと考えていたことが表明されています。確かに若さは経験不足があります。しかしそれを克服する体力・新しい気付きなどの可能性も多いのです。エレミヤは前者の不足の方を意識しました。
私たちもエレミヤと同じではないにしても "不足" を感じることは事実です。その不足は人によって違います。何を不足に感じるかは当人が一番よく知っています。
不足(ハンデキャップ)を考える時、故人となっている目だけで詩を生み出した瞬きの詩人、水野源三の言葉に教えられます。「ほかの人と、くらべないようにして生きてください」と一人の少年に送った言葉が残されています。自由を失った水野源三さんが言ったこととして意味と励ましを感じます。
三重苦の中から生きる力を送り続けたヘレン・ケラーの生き方や言葉にも励ましを感じます。
自分の不足(ハンデキャップ)をバネにして生きた人々のことを覚えることは幸いです。
エレミヤに対する神の約束は「まだ若い、と言うな」(エレミヤ1:7)でした。過剰な自信は傲慢を引き出しますが神の約束を受け止める者には神への従順が生まれます。だからこそエレミヤは生涯、預言者として波乱に満ちた中にも愛と涙と力のともなう活動をしている姿を見ることができるのです。
2、「どう語っていいかわかりません」 (エレミヤ1:6)
エレミヤが不足と感じたことは言葉でした。
論理的でない、感情表現が苦手、人前に出るとあがっしまって、など話すことができないと感じている人は多いのではないでしょうか。エレミヤは「どう語っていいかわかりません」と率直に言います。
確かに話すということは、毎日の営みですが、いざ人前で話すとなると "できない"
と考えてしまいます。
このようなエレミヤに対して神は何を約束しているのでしょう。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた」(エレミヤ1:9)とされています。必要なことばを神が授けてくださるというのです。その約束によってエレミヤは不足意識を乗り越えるのです。不足を補ってくださるお方がおられることを知ることは大きな力となるのです。
3、「わたしがあなたとともにいて」 (エレミヤ1:8.19)
エレミヤの励ましとなった決定的なことは、神が共にいてくださるという約束でした。
聖書に登場してくる人物のすべての活動の原動力は、神がともにいますという事実でした。これは神に用いられた人々の共通点です。
時代を越えて、神がともにいてくださることを信じ自覚した人々は何らかの形において神の用をこなしているのです。神に用いられているという言葉が当たっているでしょう。
ではどうしたら神が共に居てくださることを知ることができるのでしょう。ヒントはエレミヤと神とが話し合っている記述の中に見ることができます。つまり祈りです。祈りは神との会話であるといわれるように、神との交わりの中で、共にいてくださる神を知るのです。聖書の言葉がどっしりととどまる時「不足ではない」ことにつながるのです。この時代を信仰者としてたくましく生きることとなるのです。
日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
富 澤
誠 治