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誌上礼拝
2015年 4月 「しあわせなこと」 
聖書の言葉

歴代誌第二9:1〜9
9:1 ときに、シェバの女王が、ソロモンの名声を伝え聞き、難問をもってソロモンをためそうとして、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。彼女は、ソロモンのところに来ると、心にあるすべてのことを彼に質問した。
9:2 ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。ソロモンがわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。
9:3 シェバの女王は、ソロモンの知恵と、彼が建てた宮殿と、
9:4 その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たちとその服装、主の宮に上る階段を見て、息も止まるばかりであった。
9:5 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。
9:6 実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。
9:7 なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。
9:8 あなたを喜ばれ、その王座にあなたを着かせて、あなたの神、主のために王とされたあなたの神、主はほむべきかな。あなたの神はイスラエルを愛して、これをとこしえにゆるがぬものとされたので、彼らの上にあなたを王として与え、公正と正義とを行わせられるのです。」
9:9 彼女は百二十タラントの金と、非常に多量のバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったこのバルサム油のようなものはなかった。

しあわせなこと

 きょうの箇所はソロモンの知恵が賞賛されているところです。その中から「しあわせなこと」を見ることにいたしましょう。しあわせ感は人によって異なるでしょうが、聖書に見る「しあわせなこと」を確かめましょう。
1、シェバの女王のこと 歴代誌第二9:1〜9
 「歴代誌第二9:1シェバの女王が、ソロモンの名声を伝え聞き」とあります。ソロモンに持ち掛けられた難問がことごとく説き明かされたようです。その事実にシェバの女王は、「歴代誌第二9:7なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。」と言って、驚きをもってソロモンの知恵を賞賛しているのです。その賞賛の中でソロモンの知恵を聞くしあわせが語られているのです。
 そのころのイスラエル王国は、ソロモンの裁判、貿易、建築工事などが盛んで平和な時であつたようです。その反面、国民は重税に苦しんだようです。ソロモン後のレハベアムとヤラベアムの時代になると国は南北に分裂してしまったのです。
 ソロモンによってもたらされた「しあわせなこと」も長続きはしなかったのです。
2、ソロモンにまさるお方 「 マタイ12:42南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」
 イエスさまの登場です。
 この箇所はイエスさまご自身がご自分のことを語っているのです。
 神が人となっておいでくださったイエスさまですから、何も不思議なことではないのですが、当時の人々はイエスは、自分を「ソロモンよりもまさった者」とし人にも関わらず自分を神であるとしたとして避難しました。イエスの言葉を当時の人々は、理解することも、信じることもできなかったのです。イエスは誰でも知っているナザレの出身者で人そのものです。イエスさまの発言が信じられないのも無理もないことでした。しかしイエスさまの発言は真実だったのです。
 イエスさまのうちに真の 「しあわせなこと」を発見することこそしあわせそのものです。イエスさまは、ソロモンのように限界のあるお方ではありませんでした。「ヘブル13:8イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とある聖句によっても明白です。イエスさまは十字架の死という現実によっても途切れることなく復活の事実によって限界のない神たることが明らかにされたのです。
 ソロモンにまさるイエスさまを知ることは「しあわせなこと」そのものなのです。イエスさまを知るしあわせを、
3、パウロは実感していました。「コロサイ2:3このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」と語られています。
 キリストを知り、救い主と信じることは「しあわせなこと」なのです。
 教会はキリストの事実を共有している人々の集団です。キリストの事実を知ることにしあわせがあり、キリストを人々に知らせることが教会の使命です。いつもキリストを、自分のかしら、教会のかしら、と信じる人はしあわせです。特に教会の人々は、キリストをかしらと信じ認め仰ぐことはしあわせです。問題を乗り越える力がキリストによって与えられるからです。キリスト者の集団の教会も家庭も同じです。
 キリストをかしらと仰ぐことに失敗すると、さばき、混乱、ばかりになってしまいます。しかしキリストをかしらと仰ぐならば「しあわせなこと」につながって行くのです。
 自分がキリストをかしらとして仰いでいるかどうかを確かめたいものです。

      日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
                                 富 澤 誠 治

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