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誌上礼拝
2015年 2月 「心と生活」 
聖書の言葉

詩篇27:1-3
27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
27:2 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

心と生活

 詩篇の中から詩人の心と生活を見ることにいたしましよう。特に、光、救い、動じない、の三つの言葉に集中しましょう。そこから得るものがあるのです。
1、詩篇詩人が「主は、私の光(詩篇27:1)」と言うときどんな心と生活があったのでしよう。
 主なる神を「光」と表現している箇所は、詩篇36:9. 37:6. 43:3. 44:3. 50:2. 56:13. 78:14. 80:1. 89:15. 90:8. 112:4. 118:26〜28. 119:105.130.こんなに沢山の箇所に出て来るのです。新約聖書のヤコブは1:17 で神を変化することのないお方と表現しています。これらのことから神は、どのようなお方であるかを知ることができます。
☆神が光として表現されるとき、さばきを含みます。「詩篇37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」
☆神が光として表現されるとき、愛があらわされているのでした。「詩篇44:3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」
☆神が光として表現されるとき、それは迷わないためだったのです。「詩篇56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。」他は詩篇78:14.119:105.(自分の聖書で確かめましょう。)
☆神が光として表現されるとき、それは喜びに満ちたものでした。「詩篇89:15 幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」
☆神が光として表現されるとき、それは隠しごとはできないことでした。「詩篇90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。」
☆神が光として表現されるとき、それは「みことば」によるとされています。これを強調しなくてはなりません。「詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。詩篇 119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
 詩篇詩人が神を光と表現するとき豊かな神理解が生まれ生活もうるおされていたであろうことを知ることができるのです。光の中を生きる祝福を確かにしたいものです。
2、詩篇詩人が「主は、私の救い」と言うときどんな心と生活があったのでしよう。
 主なる神を「救い」と表現している箇所は、詩篇7:1 私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。(以下はご自分の聖書で確かめましょう。)詩篇13:5. 18:17. 20:6. 32:7. 34:19. 70:4. 118:21. ヨハネ3:16. ローマ6:23. この中のいくつかを調べてみましょう。
☆詩篇詩人は追われる経験者でした。その中で神の救いを強く心にとめて生活したのです。「詩篇7:1. 詩篇13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。詩篇18:17 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。」
☆詩篇詩人は自分の罪に悩んだ人でした。その罪から救われることを幸いと言っています。「詩32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」
☆信仰者も悩みを持ちます。その中で神の救いを知ったのでした。「詩篇 34:19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」
☆救いにあずかることは、神を「あがめる」ためだと詩篇詩人は言っています。『詩篇70:4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。』
☆礼拝そのものが救いととらえられたようです。礼拝は門を通過することとされています。「詩篇 118:19 義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。118:20 これこそ主の門。正しい者たちはこれより入る。118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。」
☆決定的な救いはキリストにあることが明らかにされています。「ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
☆救いはキリストによっていのちが与えられることでした。「ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
 これらの聖句によって救いが非常に広い意味で用いられていることを知ることができます。それを絞りこむとキリストの救いそのものであることを信じることとなるのです。キリスト者の生活はキリストの救いを生きることなのですね。
3、詩篇詩人が「私は動じない」と言う時、どんな心と生活があったのでしよう。
 詩篇詩人は生活の中で「私は動じない。(詩篇 27:3)」と言う時、あかしがあったのです。聖書の中の人々は、完璧な人々ではありませんでした。むしろ不完全な人々だったのです。弱い人々でした。しかし神によって「私は動じない」と生活の中であかしすることのできた人々でもあったのです。つまり現在に生きる私たちも神によって「私は動じない」とあかしすることとなるのです。神を信じ、従う生活がどれほど価値あるものかを知るのです。
 聖書にあらわされた神を知ることは最も幸いなことなのだと心に留めていただきたいものです。それが生活となれば、動じない歩みとなることも事実です。そのための訓練を神は礼拝の中で家庭や社会の中で聖書の言葉によってお与えくださるのです。神の訓練をおろそかにすることがないようにと願うものです。


      日本同盟基督教団 正教師(外務支援教師)
                                 富 澤 誠 治

2015.1.1.支えられる幸い