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| 詩の友 第148号 1997年2月 |
投稿 「老い」 太田垣泰子 君子蘭の重き鉢植持ち上げて身に負ふ老の脆き腰骨 腰痛の安静保つ身となりて夢現に聞くラジオ体操 神様のみ前に立つを夢見つつ慎み生きん余生の日々を 148号の富澤誠治作 人生 こどもの頃 人口増加で 死に追いやられる 恐れを感じ いま 老人増加で 危機の時代が 近づいている そう言われる 年代は 私のこと まだ 65歳までは 少しある 老人は 舞台で言えば クライマックスの 時のように 思えるのだが いつでも 良き生を 生きたい 冬 空を見れば 雲の白さ 青天のスガスガしさ 寒風は 身をさす 地面を見れば 名も知らぬ草が ツンツンと 緑さわやか 土の色との 調和が美しい 人生の 冬にも 見どころはある そう思うと 新しい視野が ひらけてくる 祈り 深い神との 交わりによって 自分が かえられてしまう それは信仰の世界のこと 祈りが欠けると かえられることもない 祈りによって 自分の 真実な姿が 明確にされる 自分が 変えられるような 深みのある 祈りをしたい それは 期待されている 祈りだろう 聖書 神のみ声を 聞くためには 聖書を読まなくて どうして 得られよう 聖書以外から 神の声を聞くならば キリスト信者ではなくなる 危険がある もちろん 神が創造された 自然界からも 神の声を感じることは できる しかし それだけに たよってはならない なんと言っても 聖書によって 神のみ声を 聞くことが 健全な キリスト信者の 在り方だろう 聖書のことばによって 生涯の支えが 与えられるのは 祝福 そのもの 教会 「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ人への手紙5章19節(新改訳) 神への さんびがあふれ 雰囲気がある所へ 人々は集まって 来るだろう 教会のあるべき 姿 |
| 詩の友 第149号 1997年4月 |
紙上説教 「調和の美」 富澤誠治 「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」コリント人への手紙第一12章12節から27節(新改訳) 教会の中には、いろいろな人が集められています。不一致の材料となるものはいくらでもあります。これは教会の外でも同じです。社会・家庭などあらゆる場面に当てはめることができるのです。 違いは町の中の風景に幾何学模様の美をもたらしています。人の集団も目標を持って助け合っていることは美しいものです。 きょうの聖書箇所に帰りましょう。 1、調和の美は一致することにある。 コリントの教会には多くの問題があったようです。その一つに不一致がありました。だからコリントの教会の人々に一致が勧められているのです。 ではどうしたら一致が生まれるのでしょう。結論から言えば教会のかしらキリストの指揮から目を離さないでいることから生まれるのです。 ちょうどオーケストラと指揮者のようです。オーケストラは異なる楽器で構成されています。異なる音が練習によって、指揮者によって美しい調和が生まれます。美しいハーモニーのためには奏者が指揮者に目をとめていなくてはなりません。 教会の一致のためにも指揮者キリストに目をとめていることによって起こるのです。キリストから目を離して不協和をもたらす者にならないようにしたいものです。 2、調和の美は「ともに」の中にあります。 「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」26節 苦しみを共にしてくださる人がいれば苦しみは半減します。喜びを共にしてくれる人がいれば喜びは倍化します。「ともに」は調和の美を生み出すことは間違いないようです。 3、調和の美は自分理解の中にあります。 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」27節 自分理解は「キリストのからだ」意識であることが分かります。からだは各器官によって成っています。 教会の一人一人は教会のかしらキリストに喜んでいただけるような生活を心掛ける時調和の美しさが生まれるのです。 そのためには、指揮者であるキリストから目を離さないことです。キリストの指揮に合わせるならば一致は確実です。 それこそキリストに基づく調和の美なのです。 調和を乱すような存在にならないようにしたいものです。 投稿 「スノードロップ」 渡辺久美子 庭を歩きながら見つけた喜び スノードロップの開花 小さな小さな待雪草 神さま ありがとうござてます 心に喜びを届けてくださって ![]() 写真はスノーフレイク 149号の富澤誠治作 桜花 満開の桜を見て 一生の間に 見られる 回数は何回だろうと 思ったら 人生のはかなさを 意識してしまった 本年は もう一度 見ることができた 感謝に変わった 意識 変革が 起こった ![]() 聖書通読 あなたの重荷を主にゆだねよ おぼろげに 聖書のことばが 心にとまる 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」ペテロの手紙第一 5章7節(新改訳) 聖書箇所を確かめ ゆだねる とは何だろう 学んでみる ギリシャ語の辞書には <投げかける> <ゆだねること>と 説明されていた 投げかけるには 驚いた 放棄することと 理解したからだ 注意深く 聖句を読めば 「神に」「ゆだね」なさいだ 神に投げかけるなら 神は受け止めてくださる 解決の道も教えられる 「ゆだねる」とは 投げかけるような 神への 信頼を意味する 聖書通読から 発見した 祝福 |
| 詩の友 第150号 1997年6月 |
紹介 「生まれたこと」 中学一年 河原里江 私も私の家族も生まれた もういなくなった人も生まれた "生まれた" ということは 人に "愛された" と言うことだ すこしでもいのちがあった赤ちゃん 赤ちゃんのとき死んでも愛された人間 長生きすると長生きするたんび 一年一年大きく強くなっていく 生まれたいうことは 愛されたということ 投稿 「春のいのち」 池田勇人 犬がかけてく 畦道に 光を浴びた タンポポが 仲良くうれしく 咲いている 踏まれてオシッコ かけられて 子供がかけ寄る 田んぼには 赤むらさきの れんげ草 風に吹かれて 夢見てる 摘まれて花の 冠に 青空 白雲 麦畑 今年生まれた あげ雲雀 どうして あんなに忙しく 羽根動かして 歌うのか 造られたのに 神様に 生きてるのに 若いのに 賛美せぬのは なぜかしら 外は春だよ 出ておいで 投稿 「ほほえみばな」 渡辺久美子 パンジーを見るたびに 母は 笑っているみたいだねと言う つらい事も少し軽くなる想い ほほえみばな 今日も咲いてるね 投稿 「コルセット」 太田垣泰子 覚悟してうつ向き乗りしキブス台吐く息吸う息祈りて耐えおり 胴体のギブス痛みて目覚めいる午前一時の病院ベット 蘇る心地して受くコルセット外して寝よと主治医の診断 コルセット付く重き身哀れ鶴舞の花菖蒲園瞳に映りて 150号の富澤誠治作 しらが 「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」イザヤ書46章4節(新改訳) 聖書の中に こんなことばがったとは 六一歳になって 発見した聖句 人の最後まで 背負い 責任を持つことのできる 人はいない 志はあっても 自分が先に行くかも 知れない イザヤは 神は背負ってくださると 語っている 背負って いただいたのだろう 私も信じよう 菜の花 何の種が入っているか 知らないで蒔いた種 芽生えたのは菜の花 六本から 手の平へのる種がとれた 花が咲き実を結ぶってすばらしい |
| 詩の友 第151号 1997年8月 |
紙上説教 「驚くばかりの恵み」 富澤誠治 世界の人々が愛唱しているアメージング゛レースの日本語訳は、"驚くばかりの恵み" 歌の内容は、キリストの救いの恵みが驚くばかりの恵みとして歌われている。 旧約聖書イザヤ書49章1節から6節(新改訳) 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」今、主は仰せられる。「「主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。「「主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」 とあります。 1、驚くばかりの恵みは、神はご自身を現わされると言うことでした。 私たちの側からは、神を知ることができる。それが驚くばかりの恵みなのですね。神を知ることは何にも勝る恵みなのです。特に聖書の世界の人々は、神を知ることを大きな恵みと意識していたようです。 私たちの場合も同じです。神を知ることは大きな恵みなのです。作家、三浦綾子さんの作品を読むと、神を知ることとなったことが大きな恵みと感謝しておられる心にふれることができます。 2、驚くばかりの恵みは、イザヤの労と信仰の中に見られます。 イザヤは預言の活動において「私はむだな骨折り」(4節)をしたと言っています。当時の人々はイザヤのことばに耳を傾けなかったからです。また「いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」(4節)とも言っています。何とも痛々しいことです。 そんな現実の中で信仰に立ったイザヤは「私の報酬は、私の神とともにある」(4節)と言って、預言のことばが人々に届いていかない実情の中で神を支えとして生きている姿が見られます。この支えられて生きる生活こそ、今も必要な生き方です。支えられて知る驚くばかりの恵みなのですね。 3、驚くばかりの恵みは、使命を知った時に実感いたします。 イザヤが活動した時代のイスラエルは神に背く民でした。だからイザヤの語ることばに耳を傾けなかったのです。その神への不信仰が後に国が崩れ去る原因となったのです。神への不信があふれている中で、不信の民イスラエルの使命と回復が、主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」(6節)とイスラエルの回復が預言されています。 イザヤは働きに疲れたことでしょう。しかし「私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。」(5節)と失望から希望へと転じて行きます。そこに驚くばかりの恵みがあるのです。 キリスト者も、むだな骨折りをしているかのようであったり、信仰がぐらつくような時にも真に力づけてくださるお方がおられることを感謝しましょう。 投稿 「朝顔」 渡辺久美子 夏の早朝 早起きのあさがおと かわす あいさつ 投稿 「木のしあわせ」 池田勇人 背すじ伸ばして 空仰ぎ 両手広げた その先に みどりの爪が 生えてきた ふしぎな手品師 どこかしら 次々生まれた 葉っぱたち 重なり合って 屋根となる 風に吹かれて 笑い声 光と影の オニごっこ 恋して歌う 鳥たちの 巣づくり隠す 優しさに 神がくださる ごほうびは 赤や黄色に 葉が染まる ハラハラ葉っぱ なぜ落ちる 空がまる見え 恥ずかしい それでもいいよ うれしいよ 木のぼりしている 子らがいる 投稿 「金魚」 太田垣泰子 水槽に病める金魚をかわるがわる励まし寄れる仲間の三匹 餌やれば沈みしままの病む金魚健気に尾鰭ふりて浮きくる 151号の富澤誠治作 空の星四つ 教会堂の 屋上から 見えた 四つの星 数えられないほど あるのに 見えないだけ 目が悪いからか 都会の明るさからか 両方だろう それでも 四つの星が見えた ただ それだけのことで 感動してしまった 殺し文句 ユダヤ人が言った ピラトへの 殺し文句 「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。」ヨハネの福音書19章12節(新改訳) 人は 自分の上司に弱い 知ってか知らずか ユダヤ人が 言った言葉は イエスさまを 十字架へと 向かわせてしまった その十字架が あなたや わたしの 救いとなっている |
| 詩の友 第152号 1997年10月 |
紹介 「ふたたび捧げる祈り」 ファン・グムチャン 花が咲くようにしてください 崩れやすい善良な心を 蘇生させてください あなたに捧げるお祈りの声を 聞くようにさせてください 貧しい隣人と あくどい友人のために 泣くようにさせてください 今 世紀の車輪が どこに向かって廻っているのか 分かるようにさせてください 私どもに明日がほんとうにあるか 私はいまだにこのことが 分からないままです 分からせてください 人を憎まないで 愛するように 心を治めてください 投稿 「おとずれ」 太田垣泰子 明け方のベランダに立ち大りんの朝顔の花数える日課 行く夏の雑草に絡み一りんのいきいき咲ける昼顔の花 朝顔に羽休めおり赤トンボ心ときめきて見守る朝 投稿 「ブルーベリージャム」 渡辺久美子 鉢植えのブルーベリー 今年は二鉢に増えました その分 ジャムを楽しめて家族も満足 少しだけ ブルーベリージャム作ること 上手になってきたようです 152号の富澤誠治作 メモ どこで見つけた言葉だろう 古い日めくり カレンダーに 聞き従わないなら それは自分を 神の声が聞けない 状態に負い込んで いるようなものです 信仰が 自分の生きる 力になっていることは 重要です メモをみつけて アーメンと言った 散歩 ひとが通れるだけの道 明るい日差しに 夏を感じる 目の前には 色あざやかな カンゾウの花 日に向かって 咲いている 私には暑いが 花はうれしそう 少し見とれて 歩き出す 道は 木立の中へ 通じて サングラスを はずして 見えたもの ツユクサに似た 青 あざやかな花 図鑑をしまいこんで 名前は わからない 日影で生き生き 花をつけている 人も 自分の居場所を 見つけたら 生き生きとする |
| 詩の友 第153号 1997年12月 |
投稿 「南天」 渡辺久美子 洛北の里めぐり 民家の軒先の南天 まっかに染まった葉と実の豊かさ 南天をバックに 母を撮る 少し はにかんでいる母を撮る 投稿 恵み 太田垣泰子 秋晴れに咲くコスモスの花のごと素直に生きむ残る余生を 足腰の痛み薄らぎ教会の主が与え給う席温かし 降り注ぐ一と月振りの秋雨に恵まれて咲く花壇のコスモス 153号の富澤誠治作 時がある 菜の花から 採種された種 秋に入り 何回にも分けて 蒔いてみる 九月下旬に 全部芽を出した 十一月中旬に 蒔いた種は 今だに 芽は出て来ない 種まきの 適期があるのだろうか 芽は出てこないが 春まで 待って見よう 芽が出れば うれしくなるだろう 芽が出なければ 種蒔きに 時がある 決心 T 菜の花の 種を採集した時 街路樹の下の 地面に蒔こうと 決心したが 果たせなかった イチョウの葉が 全部落ちてしまって 地面を掃除する 必要がなくなった時 芽生えた 苗を 移植してみよう 決心 U 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」ヘブル人への手紙4章7節(新改訳) 天地万有を 創造された神は 語られる お方 昔は 預言者によって 今は 御子キリストによって 語られる 聖書の中の ヘブル人への手紙に 記されている 今 私たちは 聖書によって 神の声を 聞くことができる 聖書のことばが 心に止まったら 心をかたくなにしないように それが 信仰生活の 大切な 在り方になる 働き 「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」テトスへの手紙2章15節(新改訳) パウロが テトスに 語ったことば 特に だれにも軽んじられてはいけません キリストに 仕える者にとって 必要なこと そんな 落ち度の無い 働きができるのだろうか できるとすれば 神の恵み以外にはない 軽んじられるような 働きをすることがないように 助けてください 神に喜ばれる働きが いつもできますように |