キリストの受難と復活
 2018年の受難日は、3月30日金曜日です。イエスさまのご受難を覚えましょう。イエスさまの受難が "私のためであった" と意識すればするほどにイエスさまの十字架の恵みがより豊かになります。そして4月1日イースター(復活節)の喜びが豊かになります。(オルガンをクリックすると曲が流れます。ご利用ください。)
 讃美歌21-311-2 主の苦しみは わがためなり
             われこそ罪に 死すべきなり
             かかるわが身に 代わりましし
             主のあわれみは いととおとし オルガン

            
受難週
第一ペテロ2:22〜25.
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

1、キリストの十字架の事実 第一ペテロ2:22.23.
  :22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 十字架は罪人の処刑の道具でした。罪人が死刑にさせられるために用いられたのです。イエスさまの十字架は罪があったからでしょうか、そうではありませんでした。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。2:22」とペテロは言っています。ペテロはキリストの弟子としてイエスさまと生活を共にしました。そのペテロがキリストには罪がなかったと告白しています。つまりイエスさまの十字架は罪なきお方が罪ある者とされたものだったのです。罪なきお方が十字架につけられた時、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。第一ペテロ2:23」と語られています。むしろ自分を十字架につけている人々のために祈っている姿が福音書に記されています。(ルカ23:34.そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」)とあります。ただ黙していたばかりではなく「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られたのです。驚くべき祈りです。イエスさまの祈りは自分を苦しめる者のための赦しの祈りでした。イエスさまは十字架の上から私たち罪ある者のためにお祈りくださったのです。

2、キリストの十字架がもたらしたもの 第一ペテロ2:24.25.
 :24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
 1)「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」とあるのはイエスさまが十字架につけられた死は、私たちが真に生きるための犠牲だつたのです。
 聖書が指摘する罪は、神を神として敬わないこと、私たちを愛してくださる神、イエスさまを無視することでした。その罪が個人の生活にも社会にも影響を与えます。犯罪になったり争い戦争にまでなるのです。キリストが十字架に掛かられたのは罪に陥っている人が罪な生活を離れて生きるためだったのです。
 2)「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とキリストの十字架によってもたらされているものは、「いやされた」と言う恵みです。これは罪が赦されたことからくる「いやし」です。そのいやしは、ストレスからのいやしであったり、心のいやしであったり、くつろぎを意味するいやしも含みます。その中で最も大切なものはキリストの十字架による「いやし」罪からの救いです。それは、良心のとがめからの救いでもあるのです。イエスさまの十字架によって罪赦されたことを信じると真のいやしとなるのです。
 3)「今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」とされている祝福。これが私たちにもたらされている恵みであり、安息でもあり、キリストのもとに帰ることによってもたらされる平安です。この平安は何物にも変えられない大きな祝福です。人生の素晴しさを確認する祝福です。ペテロが殉教を恐れなかった強さがここにあったです。その強さはあなたにも受け止められるものです。


           
イースター
讃美歌21 325-1 キリスト・イエスは ハレルヤ
           よみがえられた ハレルヤ
           勝利を歌い ハレルヤ
           み名をたたえよう ハレルヤ オルガン
マルコ16:1〜8.
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
16:5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 マルコは、この箇所のことを青年が語った言葉としています。欄外の注のヨハネ20:11.12. を見ると「御使い」と記されています。御使いのことは天使のことを学ぶとよく分かります。天使は人のように表現されたり、形ある存在ではないようにも表現されています。そう言う意味では「青年」と語られていることは親しみを感じます。「青年」(御使い)が語ったことの中心は「あの方(イエスさま)はよみがえられました。」マルコ16:6.つまり、イエスさまは生きておられると言うことです。これがイースターの中心です。

1、生けるキリストの事実は人に慰めを与えます。
 イースター(キリストの復活)は、きょうの箇所では、「驚き」マルコ16:5.「恐れ」マルコ16:8.そのものでした。慰めを受けるには程遠いように思われます。これが、復活に直面した人々の生の姿でした。
 現在私たちもイースターと言っても何の感動もなく、自分の生活とは無関係のように思えるものだとしたら悲しいことです。
 ところが、キリストの復活に直面した人々は確実に慰めを得ているのです。
 ヨハネ 20:21 「平安があなたがたにあるように。」が復活後のイエスさまのお言葉でした。その時、イエスさまに出会った弟子たちは大きな慰め平安を得たのでした。弟子たちのその後の生活は、恐れを知らない歩みへと進んだのです。これは私たちも同じです。よみがえられて今も生きておられるキリストを信じ理解するとき共におられるキリストによって慰められるのです。

2、生けるキリストの事実は人に力を与えます。
 ヨハネ 20:19 には弟子たちが「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが」と記されています。マルコ の福音書もキリストの復活の時には恐れが溢れたとしています。ヨハネが言う恐れはユダヤ人を恐れることユダヤ教を恐れることでした。当時のユダヤ教徒はイエスをキリストとは認めませんでした。だからキリストに十字架刑を持って報いたのです。そんな仕打ちを同族からされたらたまりません。弟子たちは恐れて閉じこもっていたのでした。そこえ復活の主キリストが現れたのですから力を得ることができたのです。
 日本風に言う恐れは、みんなからのけものにされることでしょう。生活ができなくなる、と考えることに当てはめることができます。昔はキリスト教徒が村八分にされ、買い物に行っても売ってもらえません。農業ならば田植えに必要な水をもらえません。そこでの生活は困難になってしまいます。これが村八分にされることです。現在のいじめをはるかに越えたものでした。その時、キリスト教徒はキリスト信仰をやめてしまったかと言うとそうではありませんでした。むしろ、よみがえられたキリストが共にいますことを信じて耐えたのです。キリスト信者として生き抜いたのです。これを力付けられたと言わないでなんと言えましょう。
 現在は違った困難や恐れがあります。そうした中で真に力となることはイエスさまが復活されて今も共にいてくださると信じることです。この力は現在の恐れを克服するものとなるのです。

3、生けるキリストの事実は人の心を燃やします。
 ルカ24:32 には、「私たちの心はうちに燃えていたではないか。」とエマオへ行く途上の「ふたりの弟子」(ルカ 24:1)が言った言葉があります。これは現在も同じで聖書のことばによってキリストにお会いすると心が燃えるのです。キリストとの人格的な触れ合いがキリスト者の信仰生活を豊かにいたします。共にいますキリストによって心が燃えて豊かにされます。イエスさまが共におられると信じる人にお会いすることは大きな励ましになります。私たちの信仰がだれかを励ますこととなるのです。かくありたいものですね。