門を通って
"残す言葉、受け取る言葉
"

わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。
また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

ヨハネの福音書10:9

     写真は1981年のシナイ登山の時のものです。
     
 看取り看取られるを共通の営みとすることができるとすれば、言葉を残す努力、言葉をいただく姿勢ではないかと思える。
 名古屋一麦教会、松原向牧師への毎週の病床訪問は、今思えば「臨在」の押花絵をお贈りしたことが「臨在は救いなり」の言葉をを引き出し、私にとって生涯忘れることのできないお言葉をいただいた祝福と実感したことであろう。
             
 看取られる人は、ひと言の言葉で生涯をあらわすこととなり、そのひと言が後残りするものとなるであろうことを思うと主を信頼して今を限りなく大切に生きなくてはと思う。  
 看取る人は、残された言葉を思い、これからの人生を大切にするとすれば生涯の教訓、宝の言葉となるに違いない。何と大きなことではないか。
 言葉を残す営みは、人であれば誰にでもできることと思える。今までに御国へ送ることとなった同労の牧師のことを思い出します。「み手の中に陥っています」と言葉を残された牧師。他の牧師は、(詩篇62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。)との聖句を示されたのだった。また若くして喘息で召された同労の友は、「ぼくの分も頼むね」であった。牧師として信徒の看取りにおいては、詩篇23篇を読み、もう一度「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」と読み。
 「大丈夫」と尋ねた。
 「大丈夫です。」
返ってきた言葉は今も忘れない。

自分は、どんな言葉を残すのだろう。
毎日、折々に支えになる聖句はある。
それが看取られる時の言葉となるとは限らない。
「ありがとう」それだけかも知れない。「ごめんね」かも知れない。
自分の生涯がひと言葉に結集される「言葉を残すことができるように」との祈りとなる。
緊張する必要はなかろう。誠実な信仰生活を送っていれば必ず看取る人々に後残りのする言葉を残すことができると信じるのです。