以前の詩

詩の友 第136号 1995年2月

紹介 「子どもの未来と親のまなざし」 パトリック・マケリゴット著

一茶と芭蕉

この道や行く人なしの秋の暮  芭蕉

 "この道"とは俳句の道です。
 "行く人なし" というのは、自分一人新しい分野をどんどん開拓しているので、共にいる人がいないのです。あまりにも先頭に立って、俳句の世界をどんどん草分けしているので、だれもいないのです。これが芭蕉です。
 彼はエリートで前途有為の人でした。そういうことを意識しながら一茶はこう書きました。

又人にかけ抜かれけり秋の暮  一茶

 皮肉ですね。"又人にかけ抜かれけり" また人に負い越されたというのです。
私は一茶の俳句が好きです。共感できるからです。

 マケリゴット先生は、京都市で活躍しておれる英国ロンドン生まれの牧師でロンドン大学で小林一茶の研究で博士号を取得されました。マケリゴット先生は、
日本文学を理解しつつ聖書を解き明かされておられます。

花の影寝まじ未来がおそろしいき  一茶

 この句の中に、過去、現在、未来が含まれています。"寝まじ" は現在の心境で、眠れないのでしょう。未来が恐ろしいからです。これは罪の罰について書いています。そしてその原因がどこにあるかというと彼の過去です。"花の影" は、無駄な人生、何の益にもならない自分を意味しています。
 クリスチャンはそのようであってはいけません。クリスチャンは正反対であるべきです。過去が赦されて、未来はキリストに捕らえられて、キリストとともにおられるので寝られるのです。


と書いておられます。
 ロンドン子のキリスト教牧師の一茶理解は味わい深い。一茶研究から生まれたメッセージを読み進むうちに心がとかされました。 富澤誠治


投稿  「洗礼」  太田垣泰子

すこやかに八十路の坂に近づきて今日洗礼の恵み授かる

巡り遇ふ人にはやさしく言葉かけ心豊けく猪の年迎う


136号の富澤誠治作

散歩

     机に向かっているうちに
     疲れを覚えて
     散歩に出る

     信号待ちで
     目を転じれば
     葉を落とした
     イチョウ並木の
     先端に
     高速道路の進入路が見える

     イエスさまが
     わたしは
     道であると
     言われた
     ことばを思い出す

     疲れは消され
     毎月同じ場所から
     写真に写したら
     味わい深い写真集が
     できるだろうなー
     思っただけ

     疲れが消えて
     イエスさまのことばが
     心にとどまった
     それで十分


なまけ

     取り入れを
     なまけたために
     カランコエは
     寒さに負けて
     しおれている

     サンセベリアも
     本来は
     葉を上に向けて
     ピンと立っているのに
     葉を横たえている

     もの言わぬ
     植物が
     うったえている

     "ごめんね"
     言っても
     もう
     もとにはもどらない

     でも
     鉢の中を見ると
     寒さに負けなかった枝が
     つぼみをつけている

     残った枝に心なごむ


喜び

 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。ヨハネの手紙第三 3.4節(新改訳)
     使徒ヨハネの喜びであった

     同じ喜びを
     毎日
     味わうことができたら
     どんなにうれしいだろう

     教会の人々のために
     もっともっと
     とりなしの
     祈りをしなくてはと
     励まされた

     私自身が
     確実に
     真理に歩んでいる喜びを
     確かにしなくてはと
     自分に言う

詩の友 第137号 1995年4月

紙上説教  「理由がある」  富澤誠治

 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。・・・」ヨブ記1章9節(新改訳)
 上のことばはサタンの訴えです。ヨブは理由無くして神をおそれ敬うことはないと言うのです。神の祝福があふれているのでヨブは神を敬うのだ。もしそれがなくなったら変わるだろうと言うのです。
 ヨブは神の承認のもとでサタンに打たれ、ひどい不幸に直面しました。しかしヨブの神に対する態度は変わりませんでした。どこまでも神への信頼に生きたのです。
1、人が神を敬う生活のために、祝福されていると言う理由が必要でしょうか。
 サタンは神に祝福されて豊かな生活があるからヨブは神を敬うのだと言っています。
 本当に生活の豊かさが神を敬う理由でしょうか。歴史の事実の中で巨万の富を築いた人々の生活の中に神を恐れ敬う生活があったかと言えば、かならずしも "そうだ" とは言えません。キリスト教国と言われる国々の中でも残念ですが富の豊かさが神を敬う生活になったと言う事実はあまり見ることはできません。
 地上の豊かさ、富める生活を否定するものではありませんが、富の豊かさが神を恐れ敬う生活になったと言う実例は少ないのです。
2、人が神を敬う生活の理由はなんでしょう。
 ヨブ記を読み進むとヨブが神を恐れ敬う生活をした理由を見ることができます。
 それはヨブの生活の中にあった神に祈り礼拝があったことです。ヨブの生活の中には、富む状態の時も失ってしまった時にも変わることなく神への祈り礼拝があったことです。
 またヨブ記の内容は、ヨブの三人の友人、そして年若いエリフと言う人の会話、語りかけでした。ヨブの苦痛は人からの語りかけでは解決できなかったのでした。しかし神の語りかけを聞き神が創造者であることを知ったのでした。その神の前にひざまずいてた、その時、ヨブはなっとくしました。
 何が起こっても神への信頼に目覚めたのでのです。ヨブは言っています。「今、この目であなたを見ました。」ヨブ記42章5節(新改訳)と創造者なる神との出会いを表現しています。
 ヨブだけでなく、現在に生きる私たちも何事にも理由のあることを理解しつつ、それにとらわれないで神への信頼に生きることは大切です。


お手紙  「出会い」  川根正久

 町を連れだって歩いていた友人がふっと "人の出会い" はいいものだなと言ってにっこり笑いました。
 私も "そういいものだね" とうなづきました。
 その時は、それだけで終わりましたが帰り道でしばらく考えました。"人との出会い" 気づいてみると不思議なものですね。
 まず出生による両親との出会い、兄弟、学校などでの先生・友達、仕事に係わる人々との出会い、また生涯の伴侶、子との出会いなど、人の一生の間には、さまざまな人々との出会いがあるものですね。自ら求めた出会いもありますがほとんどは予期しないものばかりではないでしょか。
 人の一生のなかで、その時、その場、その事情で、さまざまな人々と出会い交わり離別していくのですね。それは宿命的、摂理的にも思えます。
 最も素晴らしく幸いな出会い、それはイエスさまとの出会いではないでしょうか。イエスさまとの出会いは罪赦され神の子とされて永遠の生命が与えられれる出会いだからです。これこそ親しい唯一の別れなき出会いではないでしょうか。この出会いだけは失いたくないものです。すべての人があづかって欲しい出会いです。


投稿  「思いを込めて」  太田垣泰子

咲きそめしまんさくの花いじらしく神のみ使いに会う心地して

公園の水仙群落さかりなり天国への道行くごと清し

目まくるしき暮らしの合間聖書読む時をえらびて心明るし

額に入れし四つ葉のクローバー十二本摘みくれし子の真心伝えて

十二本の君子蘭咲き教会の師を招かんと心は弾む


137号の富澤誠治作

アドナイ・シャロム  
 そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。士師記六章二四節(新改訳)
     アドナイは主 神のこと
     シャロムは平安 平和

     ギデオンが
     主の働きに
     召された時
     知ったこと

     いつでも
     ギデオンの
     アドナシ・シャロムと
     なってくださるお方は

     私にも
     いつも
     アドナシ・シャロムとなつてくださる

     もっともっと
     高らかに
     アドナシ・シャロムと
     言おう
     心に決めた

詩の友 第138号 1995年6月

紹介  「人生楽々」  大川フサ子

     じたばたするのはやめた
     どうせ宇宙からみたら
     じぶんの一生なんか
     ・ みたいなもんや
     それも見えへんくらいの
     生きているんじゃなくて
     生かされている
     ワクワクしながらの毎日
     クヨクヨしながらの毎日
     どちらが徳か考えてみようぜ


     大川さんは
     三男一女の母とのこと

     現実感があって

     どちらを選ぶか

     せまって来る

     考えさせられる詩に
     出会った
     "徳"と表現された
     字に            富澤誠治


投稿  「歌日記」  太田垣泰子

君子蘭咲くわが家訪れし牧師夫妻とイエスを語る

讃美歌四九六番歌いつつ浮かぶ百合咲く花野のイエスのみ姿

どくだみの十字の花咲く明けの道つつましく行かん雨の降る日も


138号の富澤誠治作

主イエス

 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」ヘブル人への手紙13章8節(新改訳)
     繰り返し
     読んで
     黙想していると
     "在主永遠" になった

     悲しいできごと
     驚くようなできごと
     不安を増幅するできごと
     恐ろしくなるできごと
     怒りがわいて来るできごと

     その中で

 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

     聖書のことばで
     不思議な
     平安を得る

     イエスさまは
     永遠だから


心臓発作

     れん縮性狭心症の発作が
     二ヶ月以上も
     ないのは
     初めて

     三月の
     教団総会では
     二回も発作があり

     遠出は
     これから
     さけた方が
     よさそう
     そう思った

     発作のない
     毎日を
     もっともっと
     感謝して
     生きよう


シンビジューム

     毎年二月には
     咲く花が
     どうしたことか
     五月下旬から
     咲きはじめた

     思わぬ時の花に
     心なごむ

     人も
     早く咲く人もあれば
     遅く咲く人もある

     咲くのは
     神のめぐみ
     そのもの


驚き

 「激しい論争」使徒の働き15章7節(新改訳)
 「激しい反目」使徒の働き15章39節(新改訳)
     こんな現実が
     聖書の中に
     出て来るのは驚き

     激しい論争は
     人の救いについてのもの

     激しい論争があって後
     ペテロは立ち上がって
     言った

     続いて
     ユダヤ人でない
     人々が
     キリストによって
     救われて行く
     事実が語られている

     これは神の
     みわざと

     激しい反目となり
     その結果
     互いに別行動を
     とることになって・・・と
     続いている

     激しい反目が
     どうしてか
     マイナス要因のようには
     とれない
     聖書の世界の現実

     人の知恵も働いたろう

     それに勝る
     神のみわざを見る

詩の友 第139号 1995年8月

紙上説教  「キリストによって」  富澤誠治

 主イエス・キリストの弟子の一人にトマスと言う人がいます。
  トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」ヨハネの福音書14章5節(新改訳)と記されています。
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ヨハネの福音書14章6.7節(新改訳)と言ってご自身と父を示し、続いて「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ヨハネの福音書14章14節(新改訳)と言って祈りの祝福を語られました。
 ヨハネの福音書14章から学びましょう。
1、イエスさまは、ご自分を「道であり」と言われたのは、まさに救いへの道であったのです。
 古代ローマの繁栄は道にあつたと考えられています。道はローマに通じると言われたほどでした。これは歴史の事実です。軍隊、通商、旅行、文化の交流、そしてキリスト教の伝道も、この道が用いられました。
 阪神大震災においても道の重要性が明らかになりました。道に自動車があふれ救助活動が敏速に行かなかったことが悔やまれ、危機管理の中での道の重要性が意識づけられました。
 宗教的にも「道」理解は大切です。"どの宗教も至る所は同じ" と考えられていました。最近では違うことが明らかになっています。
 イエスさまが「道であり」と言われたのは人の罪からの救いの道はイエスさまご自身にあることを示されたのでした。
2、イエスさまがご自分を「真理」と言われたのは、確かなより所であることを示されたのです。
 人は思わぬできごとに会うとうろたえてしまうものです。より所のない自分に気づくのです。この気づきは幸いです。イエスを真のより所と理解し信じる者となる機会となるのからです。
 "イエスはキリストです。" つまりイエスと言われるお方は救い主ですと言うことです。この事実を信じる人はキリストをより所として生活する人なのです。
3、イエスさまがご自分を「いのち」と言われたのは、地上だけの「いのち」だけでなく永遠のいのちのことも指しておられたのです。
 これはイエスさまが死を打ち破って復活されたことによって明らかにされたもので人は死で終わりではなく死の向こうがあるということです。キリストによっていのちの希望に輝きたいものです。


紹介  「欲しがらない心」  宮原ゆりさんの手作り出版

     神様
     私の願いは
     ひとつです

     それは"欲しがらない心" です

     私が祈る前から
     あなたは
     私の願いを
     知っておられますが
     私が祈ることを
     あなたが喜ばれるから
     祈ります
     あなたと
     お話しするために
     祈ります

     お金の使い方

     持つことによってでなく
     与えることによって
     豊かになろう


投稿  「思い出」  太田垣泰子

友と行きしコリントの町よ遠き世のパウロの足跡慕いてめぐる

亡き兄の好みて歌いしローレライ ラインの岩見し船下りの旅


139号の富澤誠治作

ことば

 「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」箴言16章24節(新改訳)
     聖書の中のことばを
     発見して
     ことばの責任を
     ことばの豊かさを
     持つことの重要性を
     深く深く
     意識した

     まわりにいる人に
     蜂蜜となるような
     ことばを
     いつも持ちたい

     まわりの人々の
     たましいを
     うるおし
     信仰を豊かにする
     ことばを
     いつも持ちたい

     まわりの人々の
     骨を健やかにすると
     表現された
     肉体を健康にする
     ことばを
     いつも持ちたい

     ただの
     願いだけで
     終わらないように


起こされる恵み

 「主はかがんでいる者を起こされる。」詩篇146篇8節(新改訳)
     打ちのめされることは
     一生の間には
     何回もある

     自分の責任による
     場合には
     苦しみの理由が
     よく分かる

     まったく
     今ある現実が
     不明な時には
     とまどってしまう

     どちらも
     打ちのめされることは同じ

     そんな中で
     主はかがんでいる者を起こされる

     聖書によって
     励まされる

     詩篇詩人が
     経験したからだろう




     イチョウ並木の
     向こうに見える道

     今は
     葉があふれて
     道は見えない

     でも道が
     なくなってしまったのではない

     イチョウ並木の
     向こうには
     確かにある

     ただ
     見えないだけ

     わたはが道であり
     真理であり
     いのちなのです

     ヨハネの福音書に
     記されている
     イエスさまの
     ことば

     忘れたら
     道が見えないのと同じ

     でも
     イエスさまが
     おられなくなってしまうことはない

     みことばを
     思い出せば
     イエスさまが
     道であることが
     よく分かってくる

     みことばを
     思い出せば
     道に迷うことはない

     みことばを
     思い出せば
     そこには
     イエスさまによる
     豊かさが
     あふれている

詩の友 第140号 1995年10月

紹介 「それでも、やっぱり、クリスチャン」 岸 義紘著

     神さまの大きなみ手のなかで、
     あまがえるは、あまがえるらしく鳴き、
     ほたる草は、ほたる草らしく咲き、
     かたつむりは、かたつむりらしく歩いている。
     神さまの大きなみ手の中で、
      わたしは、わたしらしく生きよう。  (水野源三詩集より)


     結びのことばとして
     水野源三さんの詩が
     用いられている本

     わたしは、わたしらしく生きようう。

     イエスさまは
     ありのままで
     受け入れてくださっている

     そのことに気づいたら
     クリスチャンとして
     成長してゆくにちがいない   富澤誠治


投稿  「暮らし」  太田垣泰子

日ざかりに短き命を鳴く蝉よ神を呼ぶごと声高く上ぐ

老いの独り暮らしの終日は神より他に物言う人なし

母の年越すわが晩年聖書読むすこやかな日を生きる幸せ


140号の富澤誠治作

清流

     都会にある清流の石は
     きれいな丸
     きれいな四角
     流れは いつも同じ
     所々 落差によって
     あわだっている

     山の中の清流の石は
     ひとつひとつ違う
     草もはえている
     コケは 天気のよい日
     しおれて石にしがみついている

     ながれは いつも違う

     両方とも共通していることは
     人の心に
     うるおいを与えること
 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」詩篇23篇2節(新改訳)


さつき

     夏の日照りに
     葉は全部
     茶色になってしまった
     さつき

     枯れたと思い
     別の場所に
     移して
     放置

     しばらくして
     よく見ると
     二・三枚の青葉

     水を注ぎ続けたら
     新芽が出て来た

     東京から
     名古屋へ来た時のもの
     苗だったのに
     根元は
     太くなって
     鉢におさまっている

     鉢植えの
     さつきを見ながら
     いのちを
     お与えくださっている
     神の恵みを
     深く深く
     感謝した


聖書通読

 「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。」ピリピ人への手紙4:5節(新改訳)
     寛容な心を
     持っていただろうか
     自分に問うて見る

     時には
     寛容であった
     でも
     多くは
     寛容でなかった

     そんな自分を
     発見して
     寛容な心を
     人に知らせるどころか

     寛容な心を
     お与えください
     主よ と祈りが
     わいてきた

 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」ピリピ人への手紙4章13節(新改訳)
     寛容な心が
     無い私に
     聖書通読は
     大きな大きな
     励ましを
     与えてくれる

     聖書は
     神のことばであることを
     実感する

     強くしてくださる
     お方に
     もっともっと
     従順になろう

     そう思ったら
     不思議な平安が
     心におとずれた

 「彼らは私を激励する者となってくれました。」コロサイ人への手紙4章11節(新改訳)
     偉大な神のしもべパウロも
     激励を必要とする人であった

     パウロがそうであったなら
     なおのこと
     激励を必要とする者であることに
     あまんじよう

     きっと激励する者になれるから

詩の友 第141号 1995年12月

投稿  「クリスマス」  太田垣泰子

定刻に遅れし朝公園のからす二・三羽声高く鳴く

ウイーンの森巡りし思い出ときめきてベートーベンのアダージョ聞く

親しみし人みな神に授かりて心はればれクリスマス迎う


141号の富澤誠治作

支え

     十一月十八日午後三時
     心臓発作
     半分にした
     ヘルツァーを貼り
     四、五分で治る

     同じ日の午後十一時
     軽い予感のような発作
     ヘルツァー一枚
     全部を貼る

     一五分後
     本格的な
     発作になりそう
     激痛になる前にと
     ニトログリセリン服用
     一五分経過しても
     治らない

     数分ようすを見て
     二錠目のニトログリセリン
     二十分くらい
     過ぎただろうか
     まだ治らない

     発作中は
     何をすることもできない
     できることは
     聖句を思い出すだけ

     はじめに思い出された
     聖句は
 「わたしの平安を与えます。」ヨハネの福音書14章27節(新改訳)
     それでも治らない
     しばらくして
     思い出された聖句は
 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」マタイの福音書1427節(新改訳)
     ガリラヤ湖上で
     イエスさまが
     舟にいる弟子に
     かけられたことば

     三つ目に思い出された
     聖句は
     ヤコブが
     イスラエルと
     改名されたこと

     ヤコブは
     その時
     もものつがいが
     はずれ
     弱さを身に
     負う者となった   (創世記32章)

     心臓発作の中で
     聖句を思い出すことが
     支え

     どれくらい
     時間が
     経過しただろう
     懐中電灯で時計を見る
     十二時少し前

     胸の痛みが
     口からぬけて行くような
     感じで
     痛みから
     解放された

     思い出された
     聖句は
 「奮い立った。」歴代誌U3章28節(新改訳)
     来年の目標の
     ことば

     使命を感じつつ
     聖句が
     大きな大きな
     支え

     度々起こる
     心臓発作の中で

     聖書のことばが
     支え


浜辺に

     カモメが一羽
     海の中に
     両足を入れて
     何かをねらっている

     先ほどまで
     つり人がさおを
     出していた所

     人影消えて
     カモメの登場
     ながめていたが
     何も取れなかったよう
     食を得るのはカモメにとっても
     きびしい世界

     続いてカラスの登場
     何かを食べている
     たくましい鳥もいる


ようやく

 「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」マタイの福音書16章12節(新改訳)
     気をつけよと
     言われても
     なかなか分からない
     こともある
     ようやく分かった時
     気をつけるようになる

     気がついたら

     流されたり
     まどわされたり
     飲み込まれたりは
     しないだろう


カトレア

     名前はニッポン

     開くと
     白地に赤
     秋咲きなのに
     十二月に入って
     一輪だけ
     満開

     何日くらい
     楽しめるだろう
     花を見ると
     ホッとする

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