以前の詩

詩の友 第72号 1984年2月

     
「悔い改めと信仰」   富澤誠治

 きょうのテーマの中には、悔いること、改めるべきこと、信じることの三つがあります。これは現在、人が聖書的な救いにいたる確実な道すじなのです。
1、悔いること
 人はその生活の中で悪いことをしたと悔いることがあるものです。"来年は来年はとて年の暮れ" という俳句があります。これは人の新年の決心と年末の悔いが歌われたもので一度や二度誰でも経験していることでしょう。しかし中にはどんな悪い生活をしていても悔いを感じない人もいます。これは例外であって普通は良心が生活を監視して、その人を責めるのです。だから心が痛み、悔いが起るのです。しかし悔いだけでは暗い面ばかりが残って真の救いにはつながりません。悔いは次の段階へ進まなくてはなりません。
2、改めること
 聖書の中に登場する人物に、イスカリオテ・ユダが居ます。彼は、キリストを銀貨三十枚で裏切りました。とうとうキリストが十字架につけられることになった時、ユダは悔いでいっぱいになりました。しかし改めずに自殺してしまいました。
 もうひとりペテロはキリストを知らないと三度までもキリストを否定して裏切りました。その時ペテロは涙を流して悔いたのでした。その後ペテロは改めてキリストに従って行きました。つまり回心したのです。それ以後のベテロの生活は実に力強いものになって行きました。
 改めるということは勇気がいります。しかも何の力によって改めるか、これは大切です。私たち日本人の多くは自分の努力によって改善するのだと考えます。しかし自分の努力ほど不安定なものはありません。決心しても決心しても改めることのできない自分を発見してますます自信をなくしてしまうのが普通でしょう。他からの助けを借りて改める力を得るのは賢い方法でしょう。
3、信じること
 これは改める力をお与えくださるお方、つまりキリストを信じるということです。信じてキリストにお頼りするとそこに新しい生活が生まれてくるのです。
 アウグスチィヌスは「告白」の著者として有名です。彼は青年時代放蕩な生活をしていました。敬虔なキリスト教徒であった母モニカが、アウグスティヌスのために涙ぐむと彼は、"ぼくらは楽しんだだけなのに" とうそぶくような生活をしていましたが後日悔い改めてキリスト信者になり書いたのが「告白」です。その著書の中で "私たちの心はあなた(キリスト)の中に休らうまでは安んじないのです。" といっているのは有名な言葉です。つまりアウグスティヌスはキリストを信じた時、始めて快楽では得られなかった平安を得ました。そしてキリスト教会の指導者となっていったのでした。
 この原則は今も変ることはありません。
 キリストを信じて生活する者は改める力を得るのです。そして人として真の幸いに満たされて生きるようになるのです。実にキリストを信じることは人生の流れを変えること、新しい人生への出発となるのです。「わたしのところに来なさい」マタイの福音書11章28節(新改訳)と招いておられるキリストに応じてみることは幸いです。


投稿  「セントポーリア」  太田垣泰子

雪の朝師に賜りしセントポーリア 交々咲ける濃紫と白

浴槽に浸りつつ見るセントポーリア 湯気にこもりてほのぼのと咲く

二鉢のセントポーリア枕えに わが寝息吸い夜のしじまに咲く

凍てる朝墨するわれの文机に セントポーリア小刻みに揺る



72号の富澤誠治作


「聖書」

   立春とはいえ
   寒風の吹く浜
   美浜町小野浦は
   岩吉 久吉 乙吉
   三人のふる里

   千石船の難船で
   漂流船員となって
   生き残った三人
   聖書和訳の
   先人となった三人

   何不自由なく
   聖書を読むことのできる
   めぐみのかげに
   痛ましい三人の歴史がある

   自由に聖書を
   読むことができる
   この恵みの時を
   大切に
   大切にしなくては

   聖書によって
   神のめぐみを知る
   祝福を
   もっともっと
   かみしめなくては


「小野浦」

   岩のり
   採集の人がいる浜
   昔から変わりなく
   今も海水が
   打ち寄せて
   祖国の歴史を
   語っている

   いったい祖国は
   どこへ行くのかと


「教会」

  教会はキリストのからだであり、
  いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の
  満ちておられるところです。

     エペソ人への手紙1章23節(新改訳)

   "教会で何があるの"
   そんな質問がよせられる
   教会をとりまく人々は
   教会でしていることに
   興味があるらしい

   讃美歌が歌われ
   お祈りがあって
   聖書を中心にした
   説教があって
   献金もする それは礼拝
   聖書研究会もあれば
   祈り会もある
   子供会もあれば
   青年会も
   婦人会も
   壮年会もある

   キリスト中心に
   人が集まっている それが教会
   あなたも出席できますよ
              

詩の友 第73号 1984年4月

「自分を知る幸い」
     富澤誠治

 クリスチャン作家、椎名麟三は1973年3月28日他界した。先生は生前 "私には罪しか神さまにささげるものがない" といっておられたそうです。つまり先生は自分がどういう人であるか知っていたのです。
 私たち人間は自分がどういう者であるか知っているならば何をしなければならないか、また何をしてはいけないかを理解する人になるでしょう。
 では自分を知らない人とはどんな生活をするでしょう。
1、愚かな生活をします。
 ある金持ちの畑は豊作でした。金持ちはほくほく顔で大きな蔵を建て穀物や財産を得たあとで「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」ルカ12:19.(新改訳)といった。すると神は『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』ルカの福音書12:20.(新改訳)と記された聖書記事があります。これは人の生命は財産にあるのではないことが語られたものです。
 人は金に目がくらみます。元滋賀県税務所長は、石油販売会社一光から、わいろを受け取って脱税に便宜を与えたことに対する罪として懲役二年六ヶ月、執行猶予四年追徴金二百二十万円の判決があった。三月二十三日に報道されました。所長という立派な身分の人がなぜと首をかしげたくなります。
(固有名詞は消そうかと思いましたがそのままにいたしました。すでにそれなりの報いを受けておられるはずですから。)
 人は自分を知らないと愚かな生活をする。ひとつの実例ではないでしょうか。
2、過信が起ります。
 スポーツ選手の多くは自分に少なからぬ自信を持っています。自信なくして勝利を得ることはむつかしい。その自信は生命の危険をもたらすような無謀な競技へ進みます。だから審判官が試合を中止させ選手のいのちを守ります。
 人の生活には審判官はいません。そうした中で運転技術に対する過信は無謀運転にならないでしょうか。
 商売での過信は思慮のない無謀を生み出しましょう。なぜ人に過信が起るかといえば自分を知らないことから来るのではないかと思えるのです。
3、だまされた生活になります。
 外国では地理を知らない川でボート遊びは危険だそうです。それは地図にもない滝があるかららしい。いい眺めなどと遊んでいるあいだに滝に落ちてしまう事故にあうのだそうです。
 人は自分を知らないと危険が迫っていても平気で生活してしまうのです。
4、まとはずれな生活をします。
 聖書の中に放蕩息子の話しがあります。放蕩息子は父のもとを離れて幸いを得ようとしました。これがまとはずれです。父は神をあらわしています。放蕩息子は自分を知らない人間をあらわしています。人間は神を離れた生活をしているなら的外れな生活であって真の幸福はありません。
 神なくして幸いを得ようと生きている自分を知ることは神の恵みの中で生きようとする決断を生み出します。そして何をしてはいけないか正確に判別することの幸いを得るのです。


病者の祈り     医師 柏木哲夫先生談

     大事をなそうとして
     力を与えてほしいと神に求めたのに
     慎み深く従順であるようにと
     弱さを授かった

     より偉大なことができるように
     健康を求めたのに
     より良いことができるようにと
     病弱を与えられた

     幸せになろうとして
     富を求めたのに
     賢明でるようにと
     貧困を授かった

     世の人々の賞賛を得ようとして
     権力を求めたのに
     神の前にひざまずくようにと
     弱さを授かった

     人生を享楽しようと
     あらゆるものを求めたのに
     あらゆることを喜べるようにと
     生命を授かった

     求めたものは一つとして与えられなかったが
     願いはすべて聞きとどけられた

     神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
     心の中の言い表わせない祈りは
     すべてかなえられた

     私はあらゆる人の中で
     もっとも豊かに祝福された
                              一患者作
 ニューヨーク大学リハビリテーション研究所 壁


新約聖書から          富澤誠治

     神は
     私たちを世界の基の
     置かれる前から
     キリストのうちに選び、
     御前で聖く、
     傷のない者にしようとされました。

       エペソ人への手紙 1章4節(新改訳)

       無益で
       役立たない者を
       あえて選び
       信任と期待とを
       かけてくださる
       主よ 私は神の作品です
       そういえる実をいつも
       結ばせてください


 詩の友 第74号 1984年6月

積極的な人生
     富澤誠治

 人は誰でも向上心を持っています。その向上心ゆえに積極的な人生への願いが起ってくるのです。
1、積極的な人生へのいくつかの提案を紹介しましょう。
 "見ざる 聞かざる いわざる" では積極的な人生は生まれません。見る 聞く いう が積極的な人生に向わせるのです。
 "二人で考えなさい そうすれば積極的な人生を見つけることができます。" ウイルバーとオービルのライト兄弟は飛行機をエジソンと助手ディクソン・キューリー夫妻は蓄音機を、その他にも二人で考えて発明・発見が生まれた実例は積極的人生の実証になりましょう。
 これらの提案は、有名な科学評論家とある会社の代表取締役の意見です。続いて、
2、キリスト者の積極的な人生への提案を紹介しましょう。
 堀越暢治牧師は、「(1)神の知恵を求めて祈りなさい。(2)成し遂げようとする目標を設定しましょう。(3)設定された目標達成の方法を考え、できるものから手をつけましょう。(4)目標をいつまでに成し遂げるか時間割を決めましょう。(5)予算も決めましょう。」と積極的な人生への提案をしておられます。
 アメリカのロバート・シュラー牧師は、「(1)神を求めて祈りなさい。(2)正直な自己評価をしてみなさい。(3)神が共にいて助けてくださることを信じなさい。(4)信仰によって肯定的な結果を期待しなさい。(5)神に自分の意志を委ねなさい。(6)神が成されたことを喜びなさい。」そうするならば健全な自分を確立して積極的な人生を得ることができますと提案しておられます。
続いて、
3、聖書が語る積極的な人生への提案を紹介しましょう。
 第一は、「キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」ピリピ人への手紙3章12節(新改訳)これは聖書の著者パウロが積極的な人生はキリストに捕えられていることから始まることを語ったことばです。自分でつかまえていることは疲れて耐えることができなくなることがありましょう。しかし捕えられていることは積極的人生の安全保障にほかなりません。
 第二は、「上に召してくださる」ピリピ人への手紙3章13.14節という栄冠への目標、天国というゴールに向ってパウロは積極的な人生を歩みました。
 人生のゴールである栄冠への目標が明確になりませんと無駄な歩みを取り入れて、しまったと悔いることが起るでしょう。人生のゴールを見つめることを覚えてから "根気強くなったとはっきり認めることができるようになりました。" と表明された方がおられました。真実な体験です。
 第三は、達しているところの感謝。パウロの積極的な人生は順序を飛び越えて一足飛びはしませんでした。堅実な歩みをしました。「達しているところを基準として」ピリピ人への手紙3章16節(新改訳)前へ前へと進んだのでした。積極的な人生はいつでも現在を大切にして歩むのです。
 それはキリストに捕えられていると信じることの中に確かめられる歩みであって、ある人はできて私にはできないというものではなく誰でも可能な歩み方なのです。


紹介 「信仰詩集」 ディヴィト・ペイツ著 尾崎 安編訳

「おだやかにおはなしなさい」

   おだやかにおはなしなさい
   おそれをいだかせることによってよりも
   愛によってこそはるかに
   人のこころを支配することができるのです

   おだやかにおはなしなさい
   あらあらしいことばを用いて
   わたしたちがこの世で行う善いことが
   傷つけられることのないように

   おさない子には おだやかにおはなしなさい
   そうすればその愛はかならず
   子どものなかで大きく成長していくのです
   やさしいおだやかな調子で教えなさい
   子どもはいつまでも
   同じ状態にはいないのです

   若者たちには おだやかにおはなしなさい
   かれらはゆたかな実りを
   約束されているのですから
   かれらには でき得るかぎりりっぱに
   この世の道すじをたどらせてください
   この世の不安と心づかいとに
   満ちているのですから  −後略−


投稿 短歌     向後昇太郎師

この桜ちる桜とは思われず 散る時に散らぬ桜の色あせて


74号の富澤誠治作

「佐渡のチゴユリ」

   六枚の花弁を
   そっとひらき
   うつむきかげんに
   おしべとめしべを
   つつみこんで
   可憐に咲いている
   白い花
   佐渡から
   渡り渡って
   名古屋で咲いている

   福音も
   海を越え
   山を越えて
   私の所へも来た
   私のところから
   渡り渡って
   どこまで行って
   花開くのだろう


「イースター」
      写真チゴユリと詩が4月のクリスチャン新聞に掲載された。
    

     花一輪
     それは
     見る人の心を
     なごませる

     キリストの復活
     それは
     私の救い
     私の希望

     キリストの復活
     それは
     なにものにもかえがたい
     私の救い

     あなたの救い


「ひざをかがめて」

   淋しい所へ行き
   ひざをかかめられた
   イエスさま

   川岸の祈り場で
   ひざをかがめた
   パウロ

   私も毎日の生活の中で
   ひざをかがめ
   そこから人々へ
   祝福をもたらすことが
   できますように

   私は
   ひざをかがめて
   「父の前に祈ります」
      エペソ人への手紙3章15節(新改訳)

 詩の友 第75号 1984年8月

「何のために生きるか」
     富澤誠治

 私たちの生活は、"何のためにいきるか" というハッキリとした目的が生活を豊かなものにします。また、生きる意識を鮮明にいたします。きょうは二つの点から人生の目的について考えて見ましょう。
1、人生の目的理解から起る生活の相違
 現在、私たちには犯罪以外はどんな人生を送ってもよい自由が与えられています。
 第一に考えられることは、一流志向です。一流高校、一流大学、一流企業へとその志向は一流以外は考えません。
 第二に考えられることは、快楽志向です。"人生は一度しかないんだ" と快楽を求めて生活をします。しかし快楽には空しさがつきまといます。だから "これでよいのだろうか" と自問が起ります。この自問が起った時は、新しい人生へのチャンスです。
 第三に考えられることは、絶望志向です。"人生は重き荷を負って坂道を行くようだ" とか "花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき" と苦しく暗いものと考えてしまいます。
 人生をどのように考えるかによって、人の生活は大きく異なってくるものです。
2、的をしぼった人生の目的理解
 最も確実な人生は変ることのないお方キリストから目を離さないで生きることです。このことは新約聖書のヘブル人への手紙12章2節に「イエスから目を離さないでいなさい。」(新改訳)ということに基づいています。
 世界の人々が愛読している聖書が教える人生の目的は、"神の栄光をあらわす" ということです。私たち人間にとってもっとも幸いなことは神の栄光をあらわすことです。
 この神の栄光をあらわす人の生活に必要なことがイエスから目を離さないで生きるということです。この生活が確保されますと、
 第一に、自分が生まれて生きていることがうれしく感謝することになります。「チャンスに挑む」を書きました向日善信さんは、岡山大学大学院を出て就職しました。試用入社中に脊損事故で不自由な身体になられましたが同社の理解もあって復職し活躍しておられます。その著書の中で不自由な身体のままで神の栄光のために生きる喜びをあらわしておられました。
 第二は、自分でなければできない使命があるはずだと信じます。ある方は一枚しかなかった外出着を破いたりして家庭内暴力のはしりのような生活をしていた時、母親に "今のおまえは、本当のおまえではないよ。かならず将来、神に用いられるようになるよ。" といわれ "自分の使命に目覚めました。" と語られました。その方は今、大教会の牧師をしておられます。
 第三は、自分の生きている存在の大きさを信じます。イエスから目を離さないで生活するとき、自分の人生の目的を明確に理解します。そして "これこそ私の人生だ" と確信をもって生きるようになるのです。
 立ち止まって、何のために生きるのか、そのことを考え、聖書を読み、キリスト教会へでかけてみてください。求めてでかけるなら素晴らしいことを発見されるでしょう。


紹介  水野源三 第四詩集 「み国をめざして」から

「そうではない」


     歩むのは私ひとり
     そうではない
     そうではない
     私の弱さを知っておられる
     主イエスさまが共に歩みたもう

     悩むのは私ひとり
     そうではない
     そうではない
     私の弱さを知っておられる
     主イエスさまが共に悩みたもう

     祈るのは私ひとり
     そうではない
     そうではない
     私の弱さを知っておられる
     主イエスさまが共に祈りたもう


投稿       沢村せい

「ペンテコステ」

     きょうは聖日
     ペンテコステの日です
     私は早朝に目が覚めました
     きょうは神様の御聖霊がくだって
     教会ができた記念日です
     チャペルの中は賑やかに
     小さなちいさな子供たちの
     神様にささげる讃美が始まる
     大きな口を開けて
     精一杯感謝をあらわし
     歌っています
     神様はこの時を喜んでくださいました
     私の胸は熱いものを感じる
     なんと素晴らしい日でしょう
     涙が自然に出て
     神様
     この子供たちを祝福したまえ
     私は心の中で祈った
     窓外は激しい雨が降っていた
     しかし チャペルの中は
     とても素晴らしい


75号の富澤誠治作

「克服する恵み」

     キリストは
     「わたしはすでに
     世に勝ったのです。」といわれます
     その勝利を
     あなたにあげます
     だから
     「勇敢でありなさい。」といわれます
     弱さを持っている者を
     理解してくださる
     キリスト
     キリストによって
     弱さを克服する
     力が与えられる
     わたしにも
     あなたにも

 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネの福音書16章33節(新改訳)


「幸い」

     良心の責めを
     全部知っておられる
     キリスト

     私の心の責めを
     全部引き受けて
     十字架に
     掛けられた
     キリスト

     キリストは
     わたしのために
     十字架に
     掛けられたと信じる

     その時
     良心の責めから
     解放されて
     「責められるところのない道」を (注)
     歩み始め
     詩篇詩人と同じように
     私は
     さいわいです
     そういうのです
                       (注)詩篇119:1現代訳

 詩の友 第76号 1984年10月

「健康のために」
     富澤誠治

 健康それはすべての人の願いです。しかし実際には人は健康ではありません。昭和五十八年国民生活白書によると人口千人の内、平均138人は病気を持っており、四十五歳を過ぎると平均を超えはじめ、七十五歳を過ぎると494人の人が病気になっているそうです。
1、肉体の健康
 これに対する関心度は非常に高い。肉体の健康に必要なものは、
 1)食事のとり方が重要です。たんぱく質、糖質、ビタミン類、脂肪がバランス良く食せられていることは肉体の健康に重要です。
 2)運動が重要です。ジョギング・ドクターとして有名な医者が安全限界の脈拍数は180から満年齢を引き算して出された脈拍数が安全限界の運動になるとのことです。ずいぶん厳しい数字です。自分の体力にあった運動は肉体の健康に重要です。
 3)休養が重要です。やはり医者が語ることによれば、規則正しい生活、労働、休養、食事の重要性を上げています。
2、心の健康
 プロ野球の盗塁で有名な福本 豊選手は "失敗するときは、心がモヤモヤッと何が何だか自分がわからんようになってしもうとる" と失敗する時の心の状態をあらわしています。心の健康はスポーツにも必要のようです。
 「愛 深き淵より」を発行された星野富弘さんは首の骨折事故で不自由な身体になりました。そんな状態の中から
        自分が正しくないのに
        人を許せない苦しみは
        手足の動かない苦しみを
        はるかに上回ってしまった
と歌っています。心の病気の現実を表現しているようです。
 人の中には向上への願いがあります。"もっと人間的に成長したい。" "もっと自分を生かしてみたい。" "もっと人とうまく付き合えないだろうか" いろいろな向上への願いがあることがわかります。心の健康がありませんと人は決して向上へと進むことはできません。
3、霊の健康
 これは人間の宗教的な面です。人々は宗教的な関心はありますが以外とおろそかにしているものです。
 霊的に病気の状態が「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」創世記3章8節(新改訳)と記されています。
 神の御顔を避けて隠れなくてはならないような人の生活は健康ではありません。なぜ人は、神の顔を避けたのでしょう。それは神のご命令を最優先にすることができないで神に対する罪に陥ったのでした。人の中に神への罪が入ると霊的な健康は望めません。神の顔を避けるようになるのです。
 最後に人は、肉体も心も霊も健康であるとはいえない状態であっても心配しないでください。人の病をいやすことがおできになるキリストは、弱い私たちに健康をお与えくださいます。
 私たちに必要なことは、"神さま、私には健康がありません。いやしてください" と祈り願うことです。


投稿     森 健二

「つばめ」

   八月なかばの大空に
   つばめの大群乱れ飛ぶ
   名残を惜しむ別れの舞か
   南に帰る備えのためか
   しばし飛びかい姿を消した


76号の富澤誠治作

「聖書から」


   「「主の御告げ。「「
   わたしが目を留める者は、
   へりくだって心砕かれ、
   わたしのことばにおののく者だ。
    イザヤ書66章2節(新改訳)

   主が
   お喜びになる
   人の姿がよくわかる

   なんにもできないのに
   できるような
   顔をするのはやめ

   神のことば
   聖書に養われて
   すなおに生きていこう

   その歩みを
   主は
   お喜びくださるのだから


「核心に」

   雨が降って
   水たまりができ
   水たまりに
   雲がうつる

   水たまりの中の
   雲は
   本当の
   雲ではない

   本当の雲は
   はるかかなたの
   空にある

   水たまりの雲と
   空にある雲を
   見くらべて
   思う

   聖書の世界の
   核心に
   いつも
   ふれていなくてはと


 詩の友 第77号 1984年12月

「知恵ある生活」
     富澤誠治

 他人との意見が相違したとき "自分に無いものの見方や、考え方が勉強できます。" と語られた言葉に、知恵ある生活を見たような気がしました。私たちの生活にはいつも知恵が必要です。
 新約聖書のマタイによる福音書に山上でキリストが説教しておられる箇所があります。
 その頃の人々は「心配」のとりこになっていました。政治が安定せず、物資が非常に乏しいときでしたから思い煩いが起るのはもっともだと思われる時でした。思い煩いをいっぱい持っている人々に、キリストは「空の鳥を見なさい。」「野のユリがどうして育つか、よくわきまえなさい」と言いつつごくありふれた生活の身近なものを取り上げて大切な真理を教えられました。
 つまり見落としてはいけないものがあることを明かにされました。見落としてはいけないものは、神のみ手があるということでした。
 さて現在の私たちの国は安定があり物資も豊かです。キリストが語られた時代とは異なるようです。しかし思い煩い・心配は共通にあるものです。
      豊かさがいつか終るのではないか。
      事件が起きるのではないか。
      老後はどうなるのか。
 そう言った不安、心配が満ちています。どうして思い煩いがあるのでしょう、心配や不安があるのでしょう。それは人間の内にある空洞です。心の空洞は物が豊かになってもうめられません。世の中には物の豊かな人が意外と思い煩い心配をもっているものです。知識のある人が意外にも思い煩い心配をもっているものです。貧しくあればなおのことです。
 なぜ思い煩い心配は、こんなに当たり前なのでしょう。思い煩い心配ごとのない人の方が不思議なくらいです。人にはみんな心の空洞があるようです。
 パスカルは "人間の心の空洞は、神でなくては満たすことはできない。" といったそうです。人の持っている思いわずらい心配の原因は何でしょう。それが「信仰の薄い」ということばでキリストは当時の人々に神に対する不信仰を指摘いたしました。つまり神のみ手のあることを見落としていることを指摘したのです。
 キリストは見落としてはいけないことを見落としてしまっている人々に「空の鳥を見なさい。」「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。」といいつつ見落としてはいけない神のみ手のあることを示されたのです。(聖地旅行詩集の中に関連した詩があります。お読みください。)
 その時、人々は神のみ手があることを知って思い煩い・心配から解放されたでしょう。
 私たちも同じように神のみ手があることを知る時、不思議に思い煩いが消えて行くのです。
 迷い子になった幼児が母親の顔を見て泣き止み安心するように、私たちも創造主なる神のみ手のあることを知るとき思い煩いは消えて行きます。
 知恵ある生活は、神のみ手があることを見落とさないことのようです。

 (富澤は牧師でしたので紙上説教のような形で終号まで詩の友は続きました。しかし詩が本来の目的ですから、ここで紙上説教は終りにいたします。最後まで読んでくださり感謝いたします。富澤は、このホームページを立ち上げた2004年3月で牧師を引退いたしました。)


投稿 「さらにまさる道」  池田勇人

     ただひたすらに走る
     高速自動車道よりも
     野の花を見せてくれる
     小さなわき道の方がいい

     人に愛を説くよりも
     ほほえみを返す方が
     草露に似て平和だ

     詩を作るよりも
     詩の生活をすることが
     私のあこがれであってほしい


77号の富澤誠治作

「貧しき主」

     ナザレの町は
     処女マリヤに
     「あなたはみごもって
     男の子を生みます
     名をイエスとつけなさい」
     そうみ告げがあった地

     ベツレヘムは
     神が人となられた地
     そこで
     キリストは
     ご自分を
     無にして
     お姿を示された

     イスラエルの国の
     飼葉おけは
     ぬくもりのある
     木製ではなく
     冷たい
     石製のおけ
     その中で
     キリストは
     貧しい人として
     人々の前に
     自分をあらわされた

     エジプトへ
     逃れられた
     イエス
     虐殺を
     さけなくてはならない
     貧しく弱い
     イエス

     ナザレでのくらしは
     大工の仕事をされて
     やっぱり
     貧しき
     お姿をあらわされた

     エルサレムの
     郊外で
     イエス・キリストは
     十字架に
     かかられた
     いやしく貧しい
     お姿

     ああ 本当に貧しい私を
     解放し
     富ませるためでした
                  ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
     天城湯ヶ島の
     狩野川のほとり
     世古峡にある
     国民宿舎
     木太刀荘で
     祈りながら
     イエスさまを
     思っていたら
     涙がとまらなくて
     「貧しき主」ができ

     いまは
     イエスさまによって
     富ませていただいている


「思い出」

     幼い時
     親の服を見て歩く
     ひょいと見上げれば
     父ではない
     母ではない
     思わず
     べそをかく
     別の所から
     温かい両手
     見上げれば父
     そして母
     もう 温かい父の手を
     母の手をはなすまい

     天の父に
     いつもこうしよう


「アザミの花」

     遊歩道の
     岩かげに
     そっと咲いている
     アザミの花
     美しいとはいえなくとも
     道行く人をなごませる
     それで充分
     野の花の
     使命をはたしている

     私もかくあろう


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