以前の詩

    
富澤 実さん作のものになりました。

詩の友 第66号 1983年2月

紹介               作家 井上 清

   地球上で一番清らかな広場
   北に向かって整列すると
   遠くに富士が見える
   廻れ右すると天城が見える
   富士は父 天城は母
   父と母が見えている校庭でボールを投げる
   誰よりも高く 美しく 真直ぐに 天にまで届けとボールを投げる



投稿               鈴木 実
 鈴木 実さんは重い障害をもっている。お母さんは車椅子を押しては、実さんの手足になっておられる。昨年は職場を得て希望をもって働いている。

「ボールペン作り」
   作業の始まり
   インキを入れる人
   尾栓をうつ人
   芯を入れる人
   キャップをする人
   最後にカチン カチンと
   締めてゆく
   それから きれいに きれいに
   拭いてゆく
   それぞれが一生懸命
   ここには やさしい
   お父さんとお母さんがいる
   いつもみんなを見守って
   色々なことを教えてくださる
   所長さん
   一人一人に気を配って
   語りかけてくださる
   みんなが甘えている
   お昼の食事時までもう少し
   頑張ろう


66号の富澤誠治作

「祈りの里」
               
 日本同盟基督教団 総務局主事から名古屋福音伝道教会へ赴任のために祈りの時を持ち福音に仕える確信を得た。
 「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」エペソ人への手紙3章7節(新改訳)

   八丁池を水源にした狩野川
   せせらぎの音が
   天城山荘に聞え
   浄蓮の滝は見せ場
   ワサビ田には生活が息づき
   話題が生まれた文学の里
   ひとり山荘に宿せば
   祈りといこいの里
   福音に仕える確信を育てる


「水」                   

   雨のひと粒も
   雨だれのひと粒も
   蒸気のひと粒も
   みんな ひと粒
   しずくのひと粒が
   もうひとつのしずくと出会うと
   自分をまったくなくして
   新しいひとつぶになる
   人は
   人と出会っても
   自分をなくしてしまうことはない
   同化もしない
   それでいて
   キリストによって
   一致することができる
  

詩の友 第67号 1983年4月

紹介  D・H・ロレンス詩集 上田和夫訳

「魚」 −抜粋−

   ・・・・・
   うたがいもなく 彼ら 魚は
   むらがり集まる
   群れをなして泳ぐ
   だが音もなく 接触もない
   言葉も 激情も まして怒りも交わさない
   ひとつの接触もない
   多くのものが一緒にただよいながら
   永久にばらばらで
   ひとつの波に乗りながら
   どれもひとりぼっち
   ・・・・・

 ロレンスの名声は、小説の中にある。同時に"驚くべき豊かさを詩の世界にも見る"とは解説の言葉です。私たちは詩を読みながら、なにかを感じ、なにかを考え、なにかを想像します。その量が多ければ多い程、豊かな作品ということができるとは文芸評論家の言葉。


「追憶」  奥西すみ江
 昨年(1982年)7月15日、私を主に導いてくれました息子、康高事 知恵足らず盲目の荷を負いましたが故に、健常者には考えられないような事故により、主の許に参りました。突然なお召しに、私共、呆然といたしましたが一切がご摂理の中にあることと不自由な体から解放され、今は自由に天にあることとみ名を崇めております。死因は異物が食道に入り食道損傷による出血多量と診断されました。召天の直後に憶えました悲しみを、ただ言葉を並べたに過ぎませんが二、三記して 康高 を追憶させていただきます。

現世に幸薄かりし康高よ 天に上りて永遠に安かれ

己が痛み告ぐる術なく逝きし子の 無念を思いて母は涙す

弱者故に抗する術なく泣く我に 天より来たる慰めの声

 本当に子を失うことの悲しみを味わいました。同じ境遇の方々を思うことを得さしめたもう神の恵みをおぼえております。


投稿  高村ヨシ

   富士は父立春の空に悠々と


投稿  「ふと気がつけば」
 牧童

   ふと気がつけば
   窓の外に雪

   イエスさまの恵みも
   静かにふりつもっていて

   ふと気がつけば
   そこに感謝

67号の富澤誠治作

「目がある」
  
 
免許書の更新のために自動車運転試験場の待ち合わせの時間に見かけた親と子の姿、その目を見て思わずメモした詩です。どこまでもどこまでも子供を追い続ける親の目に感動しました。
 私たちはキリストを信じることによって神の家族の一人とされ、神の子とされました。神は私たちの歩みに、いつもいつくしみの目を注いでおられるのです。


   チョコ チョコ 歩くようになった
   幼子を追う親の目
   いつくしみ 危険を監視する
   両眼が輝く
   幼子は まったく
   気がつかなくても

   ああ 私を見つめている
   いつくしみ深い
   目がある


 詩の友 第68号 1983年6月

「幸福な生涯を得る道」  富澤誠治

 幸福な生涯、それを願わない人はいないでしょう。「幸福」を辞書は、運がよいこと、満ち足りて不平のない状態と説明しています。
 武者小路実篤が書いた「幸福な家族」で、父正之助は、絵を書くことの中に幸福を見出し、子供たちの半身となる人も決り、みんなで食卓をかこんでいることの中に幸福を実感し、そして子供たちが独立して行く姿に満足している親心を、父正之助、母敏子の会話で「とうとう二人になったね」「これで安心しましたが、なんだか掌中の珠をとられたような気がして、少しぼんやりしますね」「小鳥に巣立された親心の寂しさというやつだね」とあらわしています。
 幸福について、ラジオ牧師 羽鳥 明。ヒルティ。イーデス・ハンソンと武者小路公秀の世界人権宣言についての対談。など幾人かの著作を読んだ感想として、幸福とは、衣食住があり、健康な心と身体があって働く喜びがあり、経済的に恵まれ、人の権利が尊重され、差別のない平和な世界に住んで、神と共にある歩み、それだと結論づけました。
 もっと具体的には心も身体も健康で円満な家庭があり、やりがいのある仕事を持っており、経済的にもゆとりがある。こんな生活ができたとすれば幸福であるにちがいありません。ところが現実には、人は老いて行くこと、死ぬことはさけることはできません。それは幸福な生涯を妨げるものです。もっと突っ込んで考える時、罪の問題があるようです。最近、水子供養の広告がちらほら見えます。こんな広告があるのは中絶・堕胎などで消されていった生命のことをひそかに悩み苦しんでいる人が多いということではないでしょうか。これは一つの実例ですが人の問題である罪が解決されない限り真の幸福はありません。では、
 幸福を得る道はどこにあるのでしょう。
 キリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」ヨハネの福音書10章9節(新改訳)と語られました。
 キリストを信じる者は門を通る者であり、その人は救われ罪の赦しを得るというのです。事実キリストは私共罪人の身代わりに十字架上で罪の刑罰を受け赦しの道を開いてくださいました。そしてキリストという門をくぐる人は、自由を得(出入りし) 満足を得(牧草を見つける)のです。ここに幸福な生涯を得る道があるのです。
 (この時から、紙上メッセージが始まりました。)


紹介  「野の小バラ」  ゲーテ作  高橋健二訳

   わらべは見つけた 小バラの咲くを
   野に咲く小バラ
   若く目ざめる美しさ
   近く見ようとかけよって
   心うれしくながめたり
   小バラよ 小バラ あかい小バラよ
   野に咲く小バラ

   わらべは言った「お前を折るよ、野に咲く小バラ!」
   小バラは言った「私は刺します、いつも私を忘れぬように。
   めったに折られぬ私です。」
   小バラよ 小バラよ あかい小バラよ
   野に咲く小バラよ
   けれども手折った手荒いわらべ
   野に咲く小バラ
   小バラは防ぎ刺したれど
   泣き声 ため息 かいもなく
   折られてしまった 是非もなく
   小バラよ 小バラ あかい小バラ
   野に咲く小バラ


 ゲーテの作品を何回も何回も読んでいるうちに、ゲーテの心が見えて来るような気がします。
 わらべのしぐさ、それは動の姿、野に咲く小さなバラ、それは静の姿、動と静、それでいてまとまりのあるひとつの世界をなしている。
 しかも静かに咲いている野の小バラに、"いたわりの心がほしい" と言葉を与えている。
 私たちは周囲の世界から "いたわりの心がほしい" といっている言葉を、もっともっと聞くことができなくては本当の人ではない。



68号の富澤誠治作

「大きな励まし」

   「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」ヨエル書2章28節(新改訳)
   聖書のことばから
   励ましを受け
   年齢を超えて
   健常者も
   障害を持たれた方も
   自分の働きを
   発見し
   生きる目標をつかむ
   やっぱり聖書は
   神のことばだ


「見つける」

   御在所岳の
   荒々しい山はだの中で
   小さないち輪を見つけ
   可憐で美しい そう感じた時
   図鑑でハルリンドウと知った時
   見つけ出す喜びを味わう

   うつそうと茂った
   雑木林の中で
   すきとおった清い流れを見つけ
   冷たい水で顔を洗う
   さわやかな感覚
   それもひとつの発見

   谷間から前方に見える
   美しい滝
   創造主なる神の御手のわざ
   なんと美しいことか

   生活の中から
   見つけだすのも喜び
   聖書の中から
   キリストを知る
   それこそ最高の発見


「新約聖書から パウロは語る」

 「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」ローマ人への手紙5章2-5節(新改訳)

「希望」

   いつまでもいつまでも
   すたることのないことば
   希望

   将来おとずれるだろう
   良きことを期待する
   希望もあれば

   自分で働いて
   目標を達成させる
   希望もある

   どちらにしても
   希望を失ってしまう
   歩みはやめなくては


「確かなもの」

   人生の中で
   確かなもの
   それは なんだろう

   土浦めぐみ教会の
   朝岡 茂牧師は
   直腸ガンの手術を
   1982年11月に
   受けられた
   死にいたる病い
   そう考えられているガン
   手術は成功し
   今はいやされて
   牧師の活動を
   続けている

   病床を回想し
   一番たしかな支え
   それは二つある

   神のことば
   聖書の約束の確かさ
   同信の友が
   神に祈ってくれる
   とりなしのたしかさ
   これが病いの床での
   確かな支え

   確かなものをつかんでいる人生
   なんとかがやかしいことか

 1983年3月の教団総会の閉会礼拝で説教の中で語られたあかしに教えられての作です。


あとがき
 名古屋へ参りまして始めての 詩の友 をお届けします。67号までは、東京で編集、印刷したものです。この時から家内、博江の和文タイプが始まった。


詩の友 第69号 1983年9月

「一致ある家族」          富澤誠治

 人間関係の原点である家族に一致があることは幸いなことであり誰でもが願っていることです。
 その家族は「家」として進展して来ました。昔、農業集団としての家族は、住居と別棟の作業場、畜舎、ドマによって作業集団の形を持っていました。また身分集団でもありました。
 現代の家族は、農業、工業、製造業、商業、サラリーマンなどそれぞれによって家族は異なる内容があります。しかしどのような家族であっても共同の住居を持ち、経済を共にし性の交わりがあり、子供の保護と養育があり、苦しみ喜びを共にする集団です。
 この家族は、建設的な面と罪や破壊を内に秘めている集団ですからキリストの救いの対象でもあるのです。
 では一致ある家族となるためには何が必要でしょう。
1、ゆるしです。
 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主(キリスト)があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」コロサイ人への手紙3章13節(新改訳)
 家庭裁判所へ提訴される大半は「ゆるし」ができなくなってしまったことから起っています。
 ゆるされた経験のない人は、人をゆるすことができずに自分の失敗を棚の上にのせて人を責めるようになってしまいます。
 実に人をゆるすことはむつかしいことです。しかし人の罪を負って十字架に掛けられたキリストは自分を十字架に掛ける人々のことを「父よ彼らをお赦しくださ」と十字架の上から祈り赦しをお与えくださいました。このキリストを知ることは、ゆるしを自分のものにする秘訣となるのです。
2、キリストの平和です。
 「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」コロサイ人への手紙3章14節(新改訳)
 大集会の講師として活躍されている本田弘慈先生は、自我の強い人は、ありがとうと言う感謝がありません。どうですかと尋ねるいたわりがありません。ごめんなさいと言う謙遜がありませんと語られました。
 たしかに、感謝、いたわり、謙遜は人が平和に生きるための三原則です。
3、キリストのことばです。
 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」なさいとコロサイ人への手紙3章16節(新改訳)にあります。
 これは生活の中に基準があると言うことで家族の歩みに欠かすことはできません。
 ある先生が現代の家庭も "わが家のいしずえ" となるような家風を持つべきですと提案しておられます。
 私は、少し前の年代の人々が−家風−によって苦しんだことを思いつつ、キリストのことばを基準にして生きることは人を苦しめる家風ではなく、ゆるしと平和が支配する一致ある家族を形成する動力となることを信じるのです。
 「平和をつくる者は幸いです。」マタイの福音書5章9節(新改訳)


投稿  「神のことば」と「とりなしの祈り」  島村亀鶴師

わがための神のことばはイエスさま

わがためにとりなしするもイエスさま

わがために永久に生くるはイエスさま


投稿  「春夏秋冬」         堤 福江

軒下の日の照る枝にさきがけて 咲きたる一輪梅の花小さし

孫の教材の朝顔の蔓細々と サツキにまとい小さき花咲く

ミニトマトようやく熟れて それぞれの皿に珠玉の赤き実五ツ

鉢植えの松やサツキの枯葉寄せ 小さき焚火里の匂いす


聖書のことば
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」コリント人への手紙第一13章4-8節(新改訳)

「柳の枝の日陰の中で」      富澤誠治

   しだれ柳の
   すだれの中で
   黙想していると

   ヨナは
   とうごまの陰で
   ニネベの人々が
   神罰を受ける
   様子を見るために
   熱い太陽の光とは反対に
   冷たい心でながめていると
   神は失せ行く人々への
   愛を示された

   そのことを思い出して
   黙想している私に
   すばらしいみ腕が
   かこんでいる幸いを感じる

   どんな課題のある人にも


 詩の友 第70号 1983年10月

「成功ある人生の秘訣」  富澤誠治

 人生は考え方によって大きく変って来るようです。死ねば終りだと考えている人は、快楽主義に陥るか、無責任生活のどちらかになってしまうようです。また青少年の意識調査(1980年総理府実施)によれば、"将来どのような暮らしをしたいですか" と言う問いに対する第一は、金や名誉を考えずに、自分の趣味にあった暮らし方をする。第二は、その日その日をのん気にくらす。第三は、一生懸命働き金持ちになる。第四は、清く正しくくらす。いろいろありました。これらの人々は自分が意識したような生き方をすることでしょう。
 人が生活の中で成功ある人生を積極的に願うのは喜ばしいことではないでしょうか。その成功ある人生について聖書は何といっているか調べてみましょう。  新約聖書ルカの福音書16章19節から31節までを紹介しましょう。
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」 (新改訳)とあります。
 金持ちと貧乏人ラザロの二人のことが出て来ます。どうも成功ある人生は二つに分けることができるようです。
第一は、見える形の成功です。これは金持ちの姿の中に見えるものです。金があり、紫の衣、つまり上等の上着があり、下着である細布がある。当時の庶民は下着は着ませんでした。自信をつけさせる衣服が豊かで食うために働かなくてもよいぜいたくがあり、門のある立派な家、豪邸がある。これは見える形の成功といってもよいものです。
 いつの時代にも見える形の成功があります。政治界では昭和二十年代のわが国の吉田 茂。学界では、不具になった手が医学によって回復し、細菌学者として社会に貢献した野口英世。実業界では、電化製品を一般家庭に普及させ大量生産を実現させた松下幸之助。発明界では、ハイポニカ農法によって一株のトマトに一万二千個の実を得た野沢重雄。こうした人々の人格、働きに学ぶ時、誰でも自分も見える形の成功をして社会に貢献したい、自分も豊かになりたいと願うに違いありません。
第二は、見えない形の成功です。これは貧乏人ラザロの姿の中に見えるものです。彼は生きている間ひどい貧しさの中にいましたが人生の二幕目である死後の世界で慰めと平和につつまれていることがあらわされています。これは見えない形の成功ということができます。
 富める者と貧乏人ラザロの聖書箇所から
※現世には成功不成功の現実があること
※どんな人にも死はさけて通ることができないこと
※人生の二幕目の世界で、ラザロはなぐさめ、富める者は苦しみ、という生前と  は、まったく逆転していること
※現世の成功のみに心を占領されてはならないことなどについて学ぶことがで  きる。
 最後に、見える形、見えない形の両方の成功を「モーセと預言者」が教えていますと表現されています。モーセと預言者とは神のみ旨の伝達者であり、神のみ旨をあらわす聖書を指しています。人が聖書に聞き従うとき見える形も見えない形も両方ともに自分のものとする成功を得るのです。
 リンゴの中の種は誰でも数えられます。しかし一粒の種が結ぶ果実は数えられません。どなたの言葉か忘れました。
 聖書に聞き従うこと、それは成功ある人生の限りない可能性を秘めた歩みなのです。


紹介  「河野 進自選集」

「身障の友よ」

   主イエスさま
   痛みであれ
   苦しみであれ
   不幸であれ
   悲しみであれ
   立ち止まらずに
   上を向いて
   祈りから感謝へ
   大空に向かって羽ばたく
   鳥のつばさのように
   嵐の海を
   超えさせてください



「富士山と母」
   お母さん
   天国からは
   アルプスもロッキー山脈も
   富士山も
   ふるさとの山々も
   小川でおよいでいるめだかも
   一目で見えましょう
   わたしたちの家は如何ですか



投稿  「涙」  足立雅美

   キリストさま
   あなたの目から
   流れおちる涙
   ぬぐってもいいですか
   日に日に泣き顔が
   私の心にきざみつけられています
   私の汚れた手で
   あなたの涙ぬぐってもいいですか
   ・・・・・


70号の富澤誠治作

「ろばの子」


   イエスさまの
   指示により
   弟子たちに
   見出された
   ろばの子

   イエスさまを
   おのせして
   エルサレムへ
   入場した
   ロバの子

   ろばの子それは
   主がお入り用なのです

   私も友も
   イエスさまを
   おのせする
   ろばの子でありますように


旧約聖書から  
「ヨブは語る」  ヨブ記31章24節から28節(新改訳)
   私が金をおのれの頼みとし、
   黄金に向かって、
   私の拠り頼むもの、と言ったことがあるなら、
   あるいは、私の富が多いので喜び、
   私の手が多くの物を得たので、
   喜んだことがあるなら、
   あるいは、輝く日の光を見、
   照りながら動く月を見て、
   私の心がひそかに惑わされ、
   手をもって口づけを投げかけたことがあるなら、
   これもまた裁判にかけて罰せられる罪だ。
   私が上なる神を否んだためだ。


 聖書に登場する人物、ヨブの罪に対する意識を見ることができます。
我々日本人とは異なる意識です。心の深みまでも吟味するヨブの態度は、神の救済を深く意識する心を備えている。キリストの十字架が、罪を赦し、"私は赦された" "私は救われた" という喜びに向かう意識でもあるのです。


「確信」
   ダビデは
   「測り綱は、
   私の好む所に落ちた。
   まことに、
   私への、
   すばらしいゆずりの地だ。」

   自分の生活の場で
   ここに居るのは
   私にとって一番幸い
   そんな確信をしたのだろう
   「私はいつも、
   私の前に主を置いた。
   主が私の右におられるので、
   私はゆるぐことがない。」

   自分の生活の中に
   神が共にいます
   これこそダビデの
   ゆるがない確信
   だからこそ
   「私の心は喜び、
   私のたましいは楽しんでいる。
   私の身もまた安らかに住まおう。」

   そういえたにちがいない
      詩篇16篇6節から9節(新改訳)


 詩の友 第71号 1983年12月

「キリストの十字架」
  富澤誠治
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」コリント人への手紙第一1章18節(新改訳)
 古くからあるたとえに、猫に小判というのがある。猫に小判を与えても、しばらくは黄金の光に魅せられて遊んでいるがすぐに捨てて顧みることはありません。猫に黄金の値打ちはわからないからです。
 聖書の中に「豚の前に、真珠を投げてはなりません。」マタイの福音書7章6節(新改訳)とあります。豚は真珠の値打ちがわからないからです。
 私たちは、猫、豚ではない人であることを感謝します。しかしキリストの十字架を中心に人は二つに分けられることも事実です。あなたは、滅びに至る人でしょうかまたは救いを受ける人でしょうか。
 今月はクリスマス。クリスチャンにとっては人間を苦しめる罪からの解放の喜びの日でもあるのです。しかしキリストの誕生は十字架への歩みでした。自らお苦しみを受けるためだったのです。
 「あなたがたは、羊のようにさまよっていました」ペテロの手紙第一2章25節(新改訳)
 キリストがご降誕され十字架への道を歩まれたのは、私たちがさまよっていたからです。
 人は本当にさまよっているのでしょうか。町には美しい建物があり、ふくよかな顔をした人々でいっぱいです。けれども聖書は"あなたがたはさまよっている" と指摘しています。私たちの周囲は豊かそうに見えます。ところが実際は将来がわかりません。それはさまよっていることではないでしょうか。将来についていちばんわからないのは易者自身といわれます。自分のことすらわからない易者に将来を見てもらうとはおかしなことです。
 人がさまよっている原因は何でしょう。
 聖書は人の罪であると指摘しています。
 罪から解放するのはキリストの十字架です。「私たちの罪をその身に負われました。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳)
 ある育児院の収容児の収容事情の中に、崩壊家庭とあり、崩壊の理由が、離婚、父失踪、母失踪、父服役、母服役とあった。これを読み背後に罪の問題があるなと直感しつつ寒気を覚えました。キリストの十字架は、私たちの罪の全部を負ってくださるためでした。キリストの十字架をないがしろにしてはなりません。そしてキリストの十字架のお苦しみは、「私たちが罪を離れ、義のために、生きるためです。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳)
 約二千年も前のキリストの十字架は今も人を生かす力があるのです。それをたしかめるにはキリストの十字架は私の罪のためであったと信じ受け入れることです。その時、あなたに生きる喜びがおとずれて来るのです。最後に「キリストの打ち傷のゆえにあなた方は、いやされたのです。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳)
 キリストの十字架は、信じ受け入れる者をいやします。罪のために道からはずれ苦しみの中にある者をいやし救う力があるのです。あなたもクリスマスのこの月にキリストの十字架の真の喜びを受け止められますように祈ります。


投稿  「奥山滝四郎様(牧師夫人の父君)」  鈴木きよ子

 寿の御身すこやかに芍の晴れ
 七十七歳のお誕生日を
 心より 心より
 お祝い申しあげます

 ほほ笑みの絶ゆることない
 お顔にお逢いするとき
 イエスさまの
 深いご愛を覚えます

 春には可愛らしい色のお花で
 逞しく涼しげな お花は夏に
 秋には優しそうな色の花々で
 御堂のお庭を満たしてくださる

 ご不自由なお手もいとわずに・・・・・

 イエスさまと共に
 何時までも
 教会の
 お父様でいらしてください


投稿  「短歌」    森 健二

捨てるものあらじとひろいし口欠けの 小壷に赤き菊の花さす

雨がえるひまし油の葉にうずくまり 安住の場得たりと身動きもせず


71号の富澤誠治作

「ドラマがある」

   浄蓮の滝を
   じっと見ている
   しぶきとなって蒸発する水
   石の間をぬって流れていく水
   地下に吸い込まれていく水
   そこに水のドラマがある

   色づいた
   けやきの木立を
   じっと見ている
   春から夏へ成長に必要な
   太陽の光を木の葉で
   いっぱい受けて
   今 一年の使命をはたし
   散り行くところ
   そこにもドラマがある

   神のことば
   聖書を読む
   語り掛けられたことばが
   心の中にとどまり
   信仰生活のドラマを
   勝利ある歩みの
   ドラマを生み出している


「詩篇詩人の信仰」
   あなたは
   前から後ろから
   私を囲み
   み手を
   私の上に
   置かれました
 詩篇139篇5節(新改訳)

   神をあなたと呼ぶ
   人格的な交わり
   神が
   私を取り囲まれる
   なんと親しく近しい意識

   そこに詩篇詩人の信仰がある


1971年へ  1972年へ  1973年へ  1974年へ  1975年へ
1976年へ  1977年へ  1978年へ  40号記念へ  1979年へ
1980年へ  1981年へ  1982年へ